占い

金 旧暦 閏3月21日 大安 壬申 三碧木星rta Märit V19 23103日目

人はしるしを求める生き物である。花が咲けば春のしるし、青葉茂れば夏のしるし、というように目に見えるしるしもあるが、そのほかに今日は何か良いことがあるだろうかと思い、そのようなしるしは無いものだろうかとあたりを見回したりする。そのような心理は誰にでもあるのではないかと思う。占いは人のそういう心理をついてくるので、いつの時代にも絶えないのであろう。古く殷では亀の甲羅などにひび割れを生じさせて、その様子から占いをした。当時の占いはその国の政策決定に大きな影響を持っていたと思う。上田秋成の「吉備津の釜」には結婚前の鳴釜の神事のことが出てくる。古来日本人は占いが好きな人種ではないかと思うが、それは良く言えば生きることへの真面目を求めていることの表れであるとも言えるし、悪く言えば不合理なものを無批判に受け入れる非科学的態度とも言える。どのような問いかけも、その答えは本当はその人の胸の内に既に用意されているのであるが、それを信じきれないところに人の弱さがある。そういう僕にも僕なりの占いのやり方がある。朝起きて腕時計を見る時に電波受信完了のしるしを確かめるのである。夜中のうちに電波受信に成功していれば「吉」、失敗していれば「凶」と読む。時計の機能としては、ふた月やみ月ほど「凶」が続いたとしてもほぼ正確な時刻を示すので、何も毎日受信する必要はないのである。けれどももしそれが毎日更新されているならその方がなんだか気分が良い。今朝は電波受信のしるしがついていなかった。実は今日は過去4年近くにわたってやって来た仕事の大きな区切りの日なのであった。実に重大な日であった。その日の朝が「凶」で始まるなら、うまくこの区切りを通過できないのかな、とやや心配にもなったが、結果的にはうまくいって、安心した。夕方に雨は降ったが良い日であった。禍福はあざなえるDNAの如し。それは正弦曲線と余弦曲線の関係にも似ている。正弦が最大値、最小値を示す時余弦はゼロであり、余弦が最大値、最小値を示す時正弦はゼロである。どんな「吉」のうちにも「凶」の兆しがあり、どんな「凶」のうちにも「吉」の兆しがある。失意も得意も無い。