東北関東大震災

日 旧暦 2月9日 仏滅 丁卯 一白水星 上弦 Greger 1 i fastan V10 22676日目

金曜日の午後2時46分頃、仕事中に地震が来た。震度6。天井も壁も窓も床も激しく揺れた。あれよあれよという間にキャビネットの扉が両側とも開いて中から分厚いファイルが流れ出るように落ちてきた。隣で電話中であった同僚は通話先の相手に向かって、「おいこれは big one だぞ」と叫んでいる。と同時に天井の照明が消えて非常灯に切り替わった。揺れは長く続いた。新築平屋建てであったから、建物倒壊の心配はなかった。この程度の揺れで外へ逃げては建築の設計者に対し、失礼ではないかという思いがよぎって、揺れがおさまるまで座ったままで待った。しかし、それから先はもはや仕事を続けることは出来なかったので、オフィス前の広場に全員集合となった。あたりを見回すと屋根瓦が滑り落ちたり、塀が長く倒れたりしていた。時々余震もあった。津波警報も発令された。所長からいくつかの注意事項を聞いた後で解散となった。僕はすぐそばのホテルに戻るだけでよかったが、同僚は20kmほど先のホテルに帰りたいと言う。それで駅まで一緒に行ってみたが止まった電車の再開運転の見通しなど誰に聞いても分かるはずも無い。駅舎の入口にロープが張られて、立ち入り禁止になっていた。タクシー会社の前に空車がいたからやってくれと頼んだが断わられた。海岸線の道路は陥没して通行止めであるという。同僚と僕とは海とは反対側の国道まで行ってみた。車は一応流れている。停電でも国道の信号機は点いていた。手をあげてみたが止まってくれる車は1台もなかった。日は暮れかかる。風は冷たい。とうとう彼は僕の泊まっている和室のホテルに今夜は泊まろうと決めた。それから二人でコンビニへ行った。おにぎり、弁当、パンなどは既に売切れで、それでも長い列が出来、レジでは電卓で会計をしていた。電子マネーはむろん使えない。同僚と僕とは飲み物とスナックなどを買ってホテルに戻った。暗くなって、コンビニもその後すぐに店を閉めた。ホテルに戻ってからはもう寝るだけであった。電子計算機も何も使えないので、気分はかえって落ち着いて、ぐっすり眠ることが出来た。おそらくどこかで甚大な被害が出たであろうことを思うと不謹慎な気もしたが、身体がずいぶん休まったのは事実である。

土曜日の朝になって、お日様の光をありがたいと思った。澄んだ空に拡声器が何やら情報を告げている。火曜日まで小学校は休校とすると言っているようだ。電気も水も止まったままである。ホテルの主人はやかんに湯を沸かしてコーヒーを入れてくれた。それからは部屋に戻って持っている本を読んだ。普段の昼食時に配達されてくる弁当はご飯の量が多いので、残したご飯を紙コップに移して持ち帰り、それをホテルで夕食としていたが、手元にあった昨日のご飯を今日は何度かに分けて食べて空腹をしのいだ。運動不足は気になったが、体力を消耗させてはいけないと思い、ずっと部屋にいた。気持ちを乱されることも無く静かな時の流れを味わって、つかの間の隠居生活が新鮮であった。

日曜日の朝食はホテルの主人が納豆と卵の朝食を食べさせてくれた。貴重な食糧を感謝していただいた。同僚もその見慣れぬ朝食を食べた。しかし、こうしているうちに福島第一原子力発電所の1号機が爆発していたとは予想もつかなかった。ホテルに来た新聞でそれを知った。長期停電にあっては、インターネットやテレビより新聞の方が情報が早かった。一方、同僚はもはや我慢も限界に来ていて、今日は何が何でも東京へ行くと言う。道路は閉ざされているし、電車も動いていない。こんな非常事態に東京へ行って、予約無しでホテルに泊まれるかどうかも分からないから、僕と一緒にここにいろ、ヨーロッパでは断食の週でもあるし、多少腹は減っても暖かいふとんに寝ていればやがて電気も水も来るからと言ったが、聞かない。福井にいる別の同僚と公衆電話で連絡が取れて、あれこれ連絡している。そこへスウェーデンからは早く東京へ退避せよ、何故そこに留まっているのかと指示が来たが、現場の僕の見立てではこの混乱の中では動かない方が賢いのだ。というより動けないのだ。福島原発から放射能が降って来ないかはやや気になったが、もう少し情報をつかんでから決めれば良いと思った。ともかくも同僚はとりあえずの20kmの道のりを歩いてでも行くと言い張って、道中の水と食糧とを僕に求めてきた。といってもお店はどこも閉まっていることは本人が良く知っている。やむなく旧知の間柄のホテルの主人に頼んで、握り飯とペットボトルの水とを彼の分だけ都合してもらって、それに金曜日に自分用に買っておいたジュース500mlがまだ手付かずにあったのを持たせてやって国道まで一緒に行った。異国の地で災害にあえば、無理も無い。行先表示板を掲げて止まってくれる車を待つと、10分くらい立つうちに1台の車が止まってくれて、同僚はそれに乗せてもらって去った。僕はようやく肩の荷が下りた気がした。最初の予定では僕は月曜日から福井で仕事の予定であったのだが、こちらに誰もいなくなるのは良くないので、福井への移動を取りやめて、しばらくはこちらの仕事の続きをすることにした。地震で全員逃げたと思われては客先の信頼を損ねてしまう。

それにしても福島原発は何故爆発したのだろう。原子炉建屋が吹っ飛んだというから未曾有の大事故である。原子炉格納容器はたいてい5kg/cm2,gくらいの耐圧があって、過酷な条件下で配管が破断しても圧力はそこまでは達しないはずである。じわじわと格納容器内の圧力が上昇するのを心配して、これを逃がそうとして、逃げたガスが格納容器の外側で建屋を爆発させたのだろうか。爆発が起きたのが格納容器の内か外か新聞を読んでもよく分からなかった。発電所の人でも何が起きたのかまだ分からないのかもしれない。新聞は、情報提供が遅いと書いて、さも正義の味方、弱いものの味方を装っているが、誰にも分からないことを早く正確に発表しろと憤慨しても無理というものだ。

東京電力柏崎刈羽の震災からようやく復旧してきた矢先であるだけに、不幸な被災の連続となってしまった。エネルギー問題は単に電力会社1社の問題ではなく、産業全体の基礎である。この事件が日本経済全体の先行きに暗い影を落とすことは間違いない。阪神大震災から始まったかに見える日本の斜陽化はここに至ってさらに決定的な傾斜を見せるかもしれない。