日本語の遺伝子

土 旧暦 5月1日 大安 癸巳 六白金星 新月 Eskil V23 22404日目

娘はずっと前から親を離れて Stockholm で生活していたから、昨日急に親元から居なくなったという訳ではない。だから娘が結婚したからといって淋しいような気持ちは少しも起こらない。けれども心配が全く無いわけではない。それは僕たち親子3人の間で成立して来た日本語を、これから先、身近なレベルでどんな風に守っていくことができるだろうかという課題である。どんな国の言葉にもその国の言葉でなければ表現しきれないものがあると思う。それを互いに大切に保存しようとする心がとりもなおさず外国語を学ぶ基本であると思う。自分のように長年外国に住みながらちっとも言葉の出来ない人間がこんな生意気なことを言うのは僭越に違いないが、でも心のどこかでそう思うのである。母国語があるからこそ外国語という概念がある。バイリンガルの、もしくはどんな語学の天才といえども母国語はあるんじゃないだろうか。たとい多くの違った言語を巧みに使いこなすことが出来たとしても、どの言葉が自分の母国語であるかが自分で分からないくらい不安定で苦しいことはないような気がする。僕たち親子の遺伝子は日本語によって刷り込まれている。それを異国の地でどのように守っていくかが僕の切ない課題である。だが、小学校1年生から一貫してスウェーデンの学校教育を受けてきた娘にいまさらそれを求めるのは親の勝手というものかもしれない。