平家物語 巻第六 「新院崩御 3」

2024-06-29 (土)(令和6年甲辰)<旧暦 5 月 24 日>(仏滅 甲子 九紫火星)下弦 Peter Petra  第 26 週 第 27531 日

 

高倉上皇はこのところずっとご心配ごとがおありであった。一昨年にはお父上の後白河院が鳥羽殿に幽閉されておしまひになった。去年は10歳ほど年上のお兄様である高倉の宮(以仁王)が討たれてしまはれた。また福原遷都といふあはただしい出来事もあって、天下が騒がしくなった。高倉上皇はこれらのことを思ふにつれ、気も休まらずにゐらっしゃるのであった。上皇様はいつもご病気であると噂されてゐた。そこへもってきて、今度は東大寺興福寺が焼失したといふ知らせをお聞きになって、ご病気はいよいよ重くなられた。後白河院は心配のあまり嘆いておいでであった。そんな中、たうとう1月14日になって、六波羅池殿(平頼盛(清盛の異母弟)の館)で上皇様はお亡くなりになった。そのご治世は12年であったが、いくつもの徳政を敷かれ、詩經・書經に説かれた仁義の廃れたのを興さうと尽くされた。世の落ち着きが絶えた後をお継ぎになったのである。三明六通の羅漢でも、神変不可思議の仏菩薩の化身でも、どんな人も死を逃れることはできないものだ。世の中はみな移り変はるものとわかってはゐるけれども、それにしてもその道理はここまで厳密でなくとも良いではないかと思はれた。亡くなられたその夜のうちに、東山の麓、清閑寺京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある真言宗智山派の寺院)へお移し申し上げ、夕べの煙とたぐへ、春の霞とのぼらせられた。澄憲法印(信西藤原通憲)の子)は、御葬送にまいりあはんと急いで山を降りたけれども、その途中まで来た時、はやむなしき煙となられたのを見て

 

つねに見し君が御幸を今日とへば帰らぬ旅と聞くぞ悲しき

 

またある女房は、君がお隠れになったと伺って思ひを歌にした。

 

雲の上に行末遠く見し月の光消えぬと聞くぞ悲しき

 

御年21歳、仏教では十戒を保ち、儒教では五常をみだらず、礼儀正しくなさるお方であった。末代の賢王でゐらっしゃったので、世の人々は、まるで月日の光が失はれでもしたかの様に惜しみ申し上げるのであった。この様に人の願ひもかなはず、民の果報もつたなき人間たるものの境遇は悲しいものである。

 

高倉天皇陵は後清閑寺陵と呼ばれ、清閑寺の近くにある。そのすぐ奥に六条天皇陵があり、清閑寺陵と呼ばれる。その前の代の二条天皇陵は香隆寺陵と呼ばれ、京都市北区平野八丁柳町にある。壇ノ浦で入水された安徳天皇の陵は阿彌陀寺陵と呼ばれ、山口県下関市にある。また、後白河天皇陵は法住寺陵と呼ばれ、京都市東山区三十三間堂廻り町にある。)

家の近くの散歩道で