平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)2」

2023-01-07 (土)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 16 日>(先負 乙丑 二黒土星)満月 August Augusta 第 1 週 第 26996 日

 

高倉の宮が突然に御身をお寄せになったものだから、三井寺の僧たちは驚き、発奮し、これを機会に平家を懲らしめやうと決意したけれども、まともに戦へば負けてしまふ。それで北嶺(比叡山)と南都(奈良)に応援を求める手紙を書いたのだが、比叡山からは全く相手にされなかった。もう一方の奈良の方からはどんな反応があっただらうか。まづは、三井寺が奈良に向けて書いた手紙から見る。

 

園城寺から興福寺の寺務所にお手紙を差し上げます。

ことに力を合はせて、当寺の破滅を助けていただきたいお願ひの件

右、仏法がことにすぐれてゐるわけは王法を守るためであります。王法がまた長久なることは、すなはち仏法によります。ここに入道前太政大臣朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに国威を私物化し、朝政を乱れさせ、朝廷の内外で人を怨ませ嘆かせてをりましたところ、今月十五日の夜になって、一院第二の王子(高倉の宮、以仁王)が、不慮の難を逃れやうとして、急に我が寺にお入りになりました。ここに上皇院宣だといふ触れ込みで、高倉の宮をお差し出し申し上げよと、平家からは強い要求があるのですが、衆徒一向は宮様を大切にしてをります。すると、成り行きとして、かの禅門(清盛公)は武士を当寺に押し寄せやうとします。仏法と云ひ王法と云ひ、一時に破滅の危機に瀕してをります。昔、唐の會昌天子は、軍兵をもって仏法を滅ぼさうとした時、清凉山の衆は、合戦をしてこれを防ぎました。帝王の権力で仏教に立ち向かってさへもこの通りでしたから、謀反八逆のものに向かふのは何でもありません。なかんづく奈良では関白藤原基房殿が無実のまま配流せられました(興福寺藤原氏の氏寺であるので、このことが強調された)。その会稽の恥をそそぐのに、今度の機会を逸すれば、もうチャンスはないことでせう。願はくは、衆徒、内には仏法の破滅を助け、外には悪虐の伴類を退けることができれば、心を合はせること、本懐に足ります。衆徒が話し合った内容はこの通りでした。よって牒奏くだんのごとし。

  治承四年五月十八日      大衆等

と書かれてあった。

あたりはまた白くなった。