平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)3」

2023-01-08 (日)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 17 日>(仏滅 丙寅 三碧木星) Erland 第 1 週 第 26997 日

 

さて、興福寺ではこの手紙を読んで早速に返事を書いた。それには次の様に書かれてあった。

 

興福寺から園城寺の寺務所にお手紙を差し上げます。

送られた牒状1枚に載せられてをりました。右、入道浄海のために、貴寺の仏法が滅ぼされやうとする件

天台宗法相宗はそれぞれの教義をたててをりますが、経文の章句はすべて釈迦一代の説教から出てゐます。南京(奈良)も北京(京都)もともにもって如来の弟子であります。釈迦の従弟で仏の敵となった調婆達多のやうな魔障は、自寺他寺とも互ひに降伏させなければなりません。そもそも清盛入道は平氏の貧しき身分であり、取るに足りない武家でした。祖父正盛は蔵人五位の家に仕へて、諸国受領の鞭をとってをりました。大蔵卿為房が加賀守であった時、その国の検非所で使はれ、修理大夫顯季が播磨守であった昔に、その国の馬を司る役所の別当になりました。そんな程度であったのに、親父忠盛が昇殿を許される事になって、そのニュースを聞いた都鄙の老少は皆、仙洞御所にをられた鳥羽上皇の御失敗を残念に思ひ、仏教と儒教の優れた学者達は日本の将来を憂へたものでした。忠盛は立身出世をして、精一杯威儀を整へましたけれども、世の民は皆、卑しい素性を軽んじたものでした。名を惜しむ青侍はとてもそんな家に仕へやうとはしませんでした。

雨になったこともあり、散歩をサボったら写真を撮りぞこねたので、昨日の写真を載せます