平家物語「赦文 3」

2021-08-18 (水)(令和3年辛丑)<旧暦 7 月 11 日> (大安 戊戌 二黒土星) Ellen Lena 第 33 週 第 26485 日

 

月日が重なるにつれて、中宮は御身を苦しくお感じになった。漢の武帝のお妃、あの一たび笑めば百の媚が生じたと言はれる李夫人の住まはれた昭陽殿、そこで病気をなさった時の床も、このようであっただろうか。あるいは唐の玄宗皇帝のお妃、季花一枝に喩へられたあの楊貴妃、その春の雨ををび、芙蓉の風にしほれ、女郎花の露の重さうであるよりもなをいたはしいばかりの中宮のご様子であった。このようなお苦しみの折節にあはせるように、手強い物の怪が中宮に取り付いてしまった。よりまし明王といふ童男女が呪縛をかけて、数々の霊が現れるのだった。その霊といふのは讃岐院の御霊、宇治悪左府の憶念、新大納言成親卿の死霊、西光法師の怨霊、鬼界ヶ島の流人どもの生霊などであった。このことがあって平清盛は、生霊も死霊もなだめられるようにと指図をした。まもなく讃岐院は崇徳天皇と御追号され、宇治悪左府藤原頼長)は贈官贈位されて太政大臣正一位を贈られた。その勅使は少内記惟基(これもと)とのことである。問題の悪左府頼長の墓所大和国添上(そうのかん)の郡、川上の村、盤若野の五三昧であった(今の奈良市東大寺の北方。僕が子供の頃は野辺の送りの場所をサンマイと言った。近畿にはそのような三昧が五ヶ所あった)。保元の秋に掘りをこされて捨てられてからといふものは、死骸は路のほとりの土となって、年々にただ春の草が茂るばかりになってゐた。今、勅使が尋ね来て、墓の前で贈官贈位を知らせる宣命が読み上げられたのである。亡魂はどんなにこのことを嬉しく思ったことだろう。怨霊とは昔から恐ろしいものであった。過去の例では、桓武天皇の皇弟で皇太子を廃せられた早良親王崇道天皇とお呼びし、聖武天皇の皇女であった井上内親王を皇后の職位に復した。これらは皆怨霊をなだめるためになされたことである。冷泉天皇が物狂はしくなられたのも、花山天皇が天子の尊い位を退かれたのも、基方民部卿の霊であると言はれてゐる。娘の生んだ皇子が皇太子になれなかったことを恨んでのこととされてゐる。また三条天皇が目の病を患って視力を失はれたのも観算供奉の霊であると言はれてゐる。

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近所にうさぎが何羽かゐる。その辺の草だけを食べて暮らしてゐるようである。