橋爪大三郎著「死の講義」を読む

2020-11-28 (土)(令和2年庚子)<旧暦 10 月 14 日> (大安 乙亥 四緑木星) Malte   第 48 週 第 26223 日

 

僕の生まれた家は曹洞宗であった。成長して悩み抜いた末に自分で自分の宗教を求めたのではなく、生まれた時から宗派が決まってゐた。長男として生まれたからには、家の宗旨を継いで先祖を祀る。そのことに何の疑問も挟まず、誰でもそんなものだと思ってゐた。近くにある菩提寺曹洞宗のお寺であり、親に連れられてそのお寺に御墓参りに行くことがあった。時々はお坊さんの方が家に来てお経を読んで行くこともあった。けれども、檀家として日常生活の中に禅の生活を感じさせる雰囲気はほとんどなかった。近くにお寺は沢山あり、それぞれに宗派が分かれてゐたのだが、どの宗派のお寺も雰囲気が似たりよったりであった。宗派が違ふのにどうしてかうも一様であるのだろうとボンヤリと疑問を抱いたのは高校生の頃であったが、その疑問は追求されることもなくずっとそのままになってゐた。ところが今日ある本を読んだら、何故さうなったのかが明快に書かれてゐた。そして、やや飛躍するかもしれないが、遠藤周作の「沈黙」で、一旦は日本に根付いたかに見えたキリスト教が、結局は深く根をおろすことができなかった理由とも繋がるものがある様に思はれた。そんなことを僕に思はせた本といふのは橋爪大三郎著「死の講義」である。今 Kindle 版で読んでゐるところである。世界の色々な宗教では死後の世界はどの様に見られてきたかばかりでなく、日本で一般の人々は死をどの様に捉へて来たかといふ面から見た日本史の記述にもなってゐる。非常に分かりやすい本であるのだが、でも自分の考へを整理するためには二度三度と読み返してみないといけないと思った。

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地上の霜が朝日を浴びて輝く。気温が低いので終日消えなかった