平家物語「清水寺炎上」

2020-06-12 (金)(令和2年庚子)<旧暦閏 4 月 21 日> (赤口 丙戌 五黄土星) Eskil 第 24 週 第 26054 日

 

額打論の騒ぎの時、延暦寺側はひと言も出さずに引き下がったのであるが、何日か経ったお昼頃、山門の大衆が怒涛を打つ様に比叡山を降りて来た。京のみやこは大騒ぎになった。「これは後白河院が山門の大衆に平家を追悼せよとお命じになったのではないか」といふ噂が流れた。いつの時代にも有事にはデマが飛ぶものだ。平氏の一類は皆六波羅へかけ集まった。後白河院は急ぎ六波羅に御幸あった。山門の大衆の向かふ先は六波羅ではなく清水寺であった。清水寺興福寺の末寺であったので、先日額を割られたことの仕返しをしたのである。清水寺の仏閣僧坊は一宇も残さず焼き払はれた。騒動が終はると後白河院は還御された。清盛の嫡男重盛が院をお送りした。戻ってきた重盛に清盛は「後白河院六波羅に御幸あったのは恐れ多いことだ。院はかねてから平家を良からぬと思っておいでだからこそあの様な噂がたったのだろう。そなたも院には気をつけよ」と言ふ。これに答へて重盛は「滅相もない。その様なことをおっしゃってはなりません。院のお考へにそむかずに、人のために情けをかければ神明三宝の加護があり、父上も御安泰でせう。」と言った。それを聞いて清盛は「重盛は立派なことを言ふ」と感想を漏らした。

一方、院の方では「世の中には変な噂を立てるものがゐる。そんなこと思ったこともないのに」と仰せになった。すると西光法師といふものが「天に口なし、人に言はせるといふではありませんか。平家があまりにも過分な身分であるので天が懲らしめようとしたのでせう」と言った。これを聞いた人々は「壁に耳ありと言ひます。そんな恐ろしいことを言って良いものでせうか」と言ひあった。

今日までに「清水寺炎上」まで写し取ったので、自分へのメモとして書いた。僕は2019年3月16日に友達と六波羅蜜寺六道珍皇寺あたりに行ったが、清水坂六波羅のすぐ近くではなかったかと思ふ。こんなに近い場所では平家一門もヒヤヒヤしたのではないかと思ふ。ちなみに清水寺は歴史上何度か焼けてをり、現存する本堂などは寛永10年(1633) 徳川家光の寄進により再建されたものとウィキペディアで見た。

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近くの教会の前はいつもの散歩コース。