平家物語「法印問答 4」

2022-04-14 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 14 日>(仏滅 丁酉 四緑木星) Skärtorsdagen Tiburtius 第 15 週 第 26734 日

 

もう外に出て帰りかけた法印を館に呼び戻して、清盛は自分の考へを話し始めた。「やや法印御房、私が申すことは間違ってゐるだろうか。まづ重盛が死んだ時のことから話さうか。平家の運命を推し測るにつけても、自分としてはできるだけ努力をして悲しみを抑へて今日までは我慢してきたつもりだ。御辺の心にも推察していただけるだろう。保元以後は乱逆打ち続いて、君におかれては安心ならない日々でおありであったろうに、私は大体のところを見て指図するだけであったが、それに対し、みずから事にあたり、身をくだくほどの苦労をし、君のお怒りをお休め申し上げたのは、他ならぬ重盛であった。その他、天皇の即位、女御の入内、皇子の誕生などの臨時の文事や朝夕の朝廷の政務においても、重盛ほどの功臣はなかなか見当たらないものだ。それで思ひ出すのは中国の故事だ。唐の太宗は臣下の魏徴に先立たれて、悲しみのあまりに「昔の殷宗は夢のうちに良弼を得、今の朕はさめての後賢臣を失ふ」といふ碑の文をみづから書いて、廟に立てまでしてお悲しみになったといふ。我が朝にもま近く似たことがあった。顕頼民部卿が逝去した時、鳥羽院はことにお嘆きあって、予定されてあった石清水八幡宮のご参詣を延期され、管弦の行事も中止された。代々の帝は、有能な臣下が亡くなるとみなお嘆きになったものだった。さうであればこそ、君と臣との仲は、親よりも慕はしく子よりもむつまじきものと言はれてきたのではなかったか。けれども重盛の中陰に石清水八幡宮のご参詣があったし、管弦の行事も普通通りに行はれた。お嘆きの色の全く御様子もない。たとひ入道が悲しみをお憐れみなくとも、どうして重盛の忠をお忘れになったのだろう。あるいは重盛の忠をお忘れになったとしても、どうして入道の嘆きをお憐れみにならないのだろう。父子が揃って上皇のお気にめされなくなってしまふ事、今において面目のない事である。このことがひとつである。

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この週末は復活祭で今日は聖木曜日。娘の家族が来てくれたので皆でケーキを食べた