苦しい時の神頼み

2019-10-05 (土)(令和元年己亥)<旧暦 9 月 7 日>(先負 乙亥 四緑木星) bror 第 40週 第 25804 日

 

どんな宗教でも、いったん入信すると出るのは難しさうなので、僕は一切の宗教に入らない主義である。けれども宗教に無関心なのではない。目には見えない大きな力があるだろうことは僕も感じるのだが、それこそがエホバですとか、イエス様ですとか、お釈迦様ですとか、言はれるのが嫌なのだ。キリスト教の国に来たので、来てまもない頃に、少しだけ聖書を読んだことがある。経済的に苦しかった頃に一番励まされた言葉は、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」と言ふ言葉であった。でも、振り返って思へば、自由にできるお金を持ってゐなければ自ずと行動の範囲は限られるものだ。特に主にゆだねようとしなくても道はもともとひとつしかない。ところが、少しづつ自由にできるお金が増えてくると、欲が出て選択肢が増えるので、どんな決断をすれば主にゆだねることになるのか判断が難しくなる。神様はなぜ僕をスウェーデンへ連れて来られたのか、僕はこの国で何をすべきか、について、自分なりに悩んだこともある。でもある日、僕は自分のことばかり考へてゐたことに気がついた。神様の御意志は、実は同居人や娘をスウェーデンに連れてくることにあったのではないか。そしてそれが実現するために配偶者や父である僕も便宜上スウェーデンに連れて来られただけなのではないかといふことを思った。さう思ふと、何だか肩の荷がおりる様で楽になった思ひ出がある。人間は弱いので、苦しい時には神頼みをするものだ。

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Nyköpings Lasarett 近くの広場で。