永住ビザ

2019-10-04 (金)(令和元年己亥)<旧暦 9 月 6 日>(友引 甲戌 五黄土星) Frans Frank Kanelbullens dag 第 40週 第 25803 日

 

僕が日本の会社を退職したのは 1987年8月31日のことであった。その3日後には、単身、着のみ着のままでスウェーデンに向かった。アンカレッジ経由の北極周りでコペンハーゲンに行き、そこからさらにストックホルムへ向かふコースであった。長旅であった。本来ならば就業ビザを取得してから渡航すべきであったのだが、逼迫した仕事があったために観光ビザで取り敢へず入国し、少しの期間でもその仕事を手伝ふことになった。やがて正式ビザがおりる時期が来て、上司から「君の就業ビザはもう取りに行けば良い状況になったと連絡があったから、東京へ帰ってビザを取得して、なるべく早くまた戻って来て欲しい」と言はれた。それで僕はまた飛行機に乗り、秋の深まった東京に戻った。駐日スウェーデン大使館は今は確か、城山ガーデンの中にあると思ふが、当時はまだその近辺の再開発の準備中で、大使館は六本木でももう少しホテルオークラ寄りにあった様に記憶してゐる。早速大使館を訪ねたのだが、僕の就業ビザは「まだです」と言はれた。連絡ミスか何かで、1日や2日はずれることもあるかしれないと思ってそのまま帰ったのだが、そんな状態が3日以上続いた。それで、何日目かに恐る恐る「私のビザはもう発行できる状況にあるといふ確かな連絡を聞いてここに来たのですが」と言ってみた。すると相手の担当の人はみるみる態度が柔らかくなって、「実はあなたのビザはすぐにでも発行できる状況になってゐるのだが、それがあまりにも強力な永住ビザで、そんなビザを初めて本国に行く人に発行することなどありえないのですよ」と言はれた。「これは本国の担当者が間違へたに違ひないから」と毎日 FAX で繰り返し問ひ合はせるのだが杳として返事がないといふことであった。僕は、多分せいぜい1年か2年で帰ってくるのだから、「もっと短いビザで結構ですからすぐに発行してもらへませんか」と言ってみた。すると、サッと顔色が変はって、「そんな査証の条件を変更することなど、出先機関ができることでは決してありません」と強く言はれた。結局しまひには家族の分も合はせて永住許可をいただくことになったのだが、「前例のないことです、こんなことは本来なら決してあり得ないことですよ」と何度も念を押された。これはきっと担当者の言ふ通り、間違ひであったに違ひないのだが、それでもその背後で力のある会社の人がビザの取得のために当局に働きかけてくれたから起きたことに違ひないと思った。そんなにまでしていただいたことが僕には嬉しかった。そして、これはもしかするとかなり長くスウェーデンに居ることになるのかもしれないぞと、この時、暗示をかけられた様な心持ちもしたものだった。外国人への居住許可が比較的楽におりた時代のお話である。

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秋の夕暮れの散歩道。左の建物は S:t Katarina kyrka