「正」があるから「反」がある

火 旧暦 4月25日 仏滅 癸丑 八白土星 Petronella Pernilla V22 24573 日目

ヘーゲルと言へば、弁証法を唱へたことしか僕は知らない。「正」「反」「合」をどこまでも繰り返して絶対的な高みに近づくことを提案したとされる。世の中に「正」と「反」があることはよく分かる。僕の青少年時代には「放任主義」といふ言葉を耳新しく聞いたものだった。親は一般に子供をしつけるために口やかましいものであるが、子供を好きなままにさせる親もあるらしい、何て進んだ親なんだろうと当時は羨ましかった。子供をしつける親が「正」であれば、子をほったらかしにする親は「反」である。もともと「正」で固まった世界であるからこそ「反」が導入されると新しい価値が生まれる。もしも、最近の一部の親たちの様に、初めから子をほったらかしにすることが前提であれば、そんな世界に「放任主義」を言及してもなんの価値も生まない。「身命を惜しまず」といふ言葉がある。この言葉は「いのち」への限りない慈しみの気持ちが前提にあって初めて意味を持つ。最近の一部のイスラム過激主義者の様に、初めから「いのち」への祈りを知らぬ者どもにとっては「身命を惜しまず」といふ言葉は意味を持たない。山があるから谷がある。楽があるから苦がある。「正」があるから「反」がある。人は皆「空」から生まれ、山あり谷ありの暮らしを体験して、やがていつか「空」に帰る。それは同じ「空」であっても、山の高みと谷の深みとを体験し尽くした後での貴重な「空」である。真空といふ場所は僕らには何も無い静寂な空間である様に見えるが、うんと短い時間とうんと狭い空間に目をやれば、物質と反物質が絶え間なく生まれては消える動的な世界であるらしい。そのことと僕らが生きてやがて死ぬこの日常空間とは類似的である。「人の幸せはお金では買へない」。その通りであると思ふし異論はないが、お金のありがたさを骨身にしみて知った上での発言であってほしい気もする。