漱石が生きた時代

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今年は第一次世界大戦から100年だと言へば、夏目漱石朝日新聞に「こころ」を連載したのもちゃうど100年前のことであった。朝日新聞はそれを記念して100年ぶりに同じ小説を再掲載してゐる。良い企画だと思ふ。僕も後追ひで読んでゐる。今、「中 両親と私」が完結して、「下 先生と遺書」が始まるところである。先生は毎月、雑司ヶ谷に誰かの墓を訪ねる秘密を持ってゐる。あの小説の影響を受けた訳でもあるまいが、僕も東京へ出てちょっと時間があると、雑司ヶ谷墓地を散歩することがある。漱石自身も雑司ヶ谷に眠ってゐる。漱石が師事したケーベル先生のお墓も近い。ケーベル先生はモスクワ音楽院で直接チャイコフスキーの薫陶を受けた。日本に来て東大と東京音楽学校で哲学、西洋古典、音楽などを教へた。Wikipedia には母はロシア人と書かれてゐるが、岩波文庫「ケーベル博士随筆集」の巻末の解説には母方はスウェーデン人の血も混じってゐると書かれてゐる。東大に21年在職し、その間ドイツに一時帰国することは無かった。退職後、ドイツに戻る決心をして、まさに横浜から船に乗り込まうとした時、第一次世界大戦が勃発して日本に留まることになってしまった。それからちゃうど100年である。ケーベル先生は高潔な人格の人だが、やはり望郷の思ひはおありだったらうと思ふ。先生はそのまま日本に滞在し、1923年に横浜でなくなった。そのおよそ3ヶ月後に関東大震災が起きてゐる。