秋の大掃除

土 旧暦9月26日 仏滅 庚戌 二黒土星 Marika Marita V42 22900日目

秋の大掃除の日。天気はいまひとつで、風も多少あったが、近所の人たち総出で朝から庭掃除が始まった。灌木の手入れをする電動のこぎりの音にせかされるように表へ出る。同居人も一緒に出る予定であったのだが、昨夜の勤務でシーツ替えが大変であったとか言って、体調を整えるために少し休むことになった。それで僕が代表でひとりで出た。一世帯から誰も出ないと後で請求書が来てお金を払うことになっている。お金を払った方が楽と考える人もあるかもわからないが、共同の労働に参加することに社会奉仕の意義がある。この日にスウェーデンにいることができて良かったと思う。大きなコンテナが用意されているので、伐採した灌木や掃き寄せた落ち葉を捨てる場所に困らない。ありがたいことだ。コンテナは枯木などでみるみるうちに一杯になるのだが、するとどこからかショベルカーが現れて、積もった枯木を上からつぶして、減容してくれる。ありがたいことだ。枝葉をチップ化すればもっとすごい減容が出来ると思うがそこまではしない。子供たちもたくさん出て来て、何だか楽しそうにしている。砂場で子を遊ばせながら掃除をしているお母さんもいた。明らかによその国から来たなと分かる人もいるし、見慣れないご近所さんもずいぶん居た。向こうから見れば見慣れない日本人だと思われたか知れない。僕は箒で枯葉を集めてはコンテナへ捨てに行くことを何度もくりかえした。きりのない作業であるが、無心に掃くというのは楽しいものである。どの範囲を何時までに仕上げなければいけないというノルマが課せられると、まるで仕事の延長の様になって良くないのだが、そうでないのがありがたい。現代は管理の時代でいつも効率だけが重んじられているが、どのような種類の作業であれ、本当の労働とは管理の対象になりえないものと僕は思っている。無心に掃いて振り返ってみるといつの間にか広い範囲がきれいになっている。そのことが尊いのであって、実業の世界では、ひとり1時間の作業でなんぼ、とか、これをいつまでに、とかいうような計算をやってしまうことが、そしてそれがあたかも正しい管理の在り方ででもあるかのように思われていることが、何とも僕には腹立たしい。管理が労働の後についてくる仕上がりは上質であるが、労働が管理に支配された仕上がりは質が落ちるとも思っている。そんなことを思っていると、隣のアグネッタが寄って来て、「私、ついにおばあちゃんになったのよ」と言う。昨夜初孫が生まれたのだという。「それはおめでとう。良かったね。同居人は部屋で休んでいるよ」と言うと、彼女は窓辺まで行って、小窓越しに中にいる同居人に声をかけてそのことを報告している。よほどうれしかった様子が分かる。掃除の後はソーセージつきパンとコーヒーが集会所に用意された。そうして今年の秋の掃除も終わった。