臨界学習の思ひ出

2022-04-25 (月)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 25 日>(先負 戊申 六白金星) Markus 第 17 週 第 26745 日

 

昨日 SL を見たせいか、子供の頃の旅行を思ひ出した。普段は家から歩いて行ける範囲でしか動くことがなかった。非常に狭い世界に生きてゐたものだと思ふ。それで乗り物に乗って出かけることは一大イベントであった。乗り物は憧れであった。小学校6年生の夏の臨海学習も思ひ出深い。家以外の場所で泊まるといふ事がなかったので、2泊3日の体験は新鮮であった。そのころはまだ北陸トンネルがなかったので、今庄と敦賀の間はかなりの難所であった。汽車はスイッチバックなどのテクニックを駆使して行き来したように記憶してゐるが、それよりも印象的なのはいくつも続くトンネル群であった。短いトンネルを過ぎるといきなり真っ青な日本海が目に飛び込む。そして見えたかと思ふとすぐにまた次のトンネルに入ってしまふ。これを何度も繰り返すのだ。その瞬間に焼き付いた残像が鮮やかで、言葉では言ひ表せないほど美しい。煤煙の問題もあったので必ずしも快適ではなかったが、あの美しさはその不便に見合ふものだった。北陸トンネルができたことで、速く敦賀に行けるようになったことは喜ばしかったが、あの風景が見られなくなったのは寂しいと思った。ところで臨界学習は、ちょうどその区間にある杉津といふ駅の近くであった。駅は高いところにあるので、海辺まで歩いて降りて行ったように思ふ。臨界学習でも泳ぐ事ができるようにはならなかったけれども、楽しい夏の思ひ出であった。最終日のランチがカレーライスであったことも覚えてゐる。あの頃、地球はまだ綺麗であった。61年前の夏の思ひ出である。

昨日、Stockholm では桜が満開であった。

 

Stockholm で見た懐かしのSL

2022-04-24 (日)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 24 日>(友引 丁未 五黄土星) Vega 第 16 週 第 26744 日

 

自動車で娘や孫たちのところへ行った。Stockholm では路上に駐車できる区域があって、日曜日はその料金が無料になる。そこに駐車して降りようとしたら、ボーッと汽笛が鳴った。何だろうと思って顔をあげると目の前に SL が走って来たのでビックリした。写真を撮る間もなかったが、 SL の走って行った方向に少し歩いてみると、何十メートルか先にその SL が止まって、人が集まってゐた。それで僕も近くまで行って SL を眺めた。日本でも新橋駅前に SL が置かれてあるが、動く SL を見たのは何年ぶりだろう。とても懐かしい気がした。今は何でも電気で動くが、昔ながらの蒸気機関車が良く手入れされてあって今なお動くことに感動した。

煙を吐いて走る蒸気機関車を見た

 

春の共同掃除日

2022-04-23 (土)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 23 日>(先勝 丙午 四緑木星)下弦 Georg Göran 第 16 週 第 26743 日

 

住む地域の、恒例の春の共同掃除が朝から始まった。一応の作業時間は3時間程度で、正午になると集会所でホットドッグやコーヒーが出る。9時に集会所の前に集まると、ビニール袋に入った土がたくさん置いてあった。それを共同区域に植えられた桜などの根元一帯に補充することが今日の作業のひとつである。ちなみに桜は今日は5分咲きほどであった。でも僕は少し離れて、小学校との境界にある林の中のゴミを集めた。ゴミといふより、枯れ木の小枝のようなものを拾った。熊手で集めるには少し大きいかなと思はれるような小枝を集めて、少し離れたところに置かれたコンテナまで運んだ。黒い大きなビニール袋に詰めて運んだが、結構な重さになって、連続してまともに作業すると僕には重労働になるのを感じた。菓子袋なども落ちてゐて、最初は小枝のゴミと人間が捨てたゴミとを別々の袋に入れて作業したが、ふたつの袋を持って作業するのは能率が悪いので、人間が捨てたゴミの方はそのままにして集めなかった。庭木のゴミは普段は集めに来てくれないので、この共同掃除日に置かれる臨時コンテナへ持って行かなければ、また秋まで待たなければならない。それで、いつでも回収できる一般ゴミの方は今日やらなくても良いかと思ったのである。冬の間に自分の庭の部分に溜まった枯葉も三つのビニール袋に入れて小屋にしまってあったのだが、それも今日の機会に一緒に捨てることができた。作業が済むと午後は眠くなって昼寝をした。すると夕方まで寝てしまった。

共同掃除の合間にひと休み

 

ウクライナの大量遺体遺棄

2022-04-22 (金)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 22 日>(赤口 乙巳 三碧木星) Allan Glenn 第 16 週 第 26742 日

 

ロシアは、ウクライナマリウポリといふ町を掌握したと宣言した。ウクライナ側は徹底抗戦の構へである。この頃こちらでは良いお天気が続き、平和な毎日を過ごさせてもらってゐるが、同じヨーロッパでこのような出来事があることを思ふと、心が晴れない。マリウポリではロシアが市民の遺体をトラックで運び遺棄してゐるといふ。戦争犯罪隠蔽の疑ひがある。マリウポリで2万2千人が殺害され、9千人が埋められた可能性があると新聞で読んだ。多くの犠牲者たちに合掌する気持ちだ。気持ちとしてはウクライナを応援してやりたいが、他の国が軍事介入すると世界大戦になる恐れもあるので、簡単には介入できないのだと思ふ。でもこのままでは犠牲者が増えるばかりだ。スウェーデンでも NATO への加入申請が現実味を帯びて来てゐる。これ以上戦火が広がらないように、なんとか心を開いた話し合ひが実現しないものかと祈るばかりである。

わが町でも桜が咲き始めた

 

イースターの暴動

2022-04-21 (木)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 21 日>(大安 甲辰 二黒土星) Anneli Annika 第 16 週 第 26741 日

 

日本の新聞には載らなかったようであるが、スウェーデンでは先週のイースターの時期にいくつかの町で暴動があった。近いところでは Norrköping, Linköping でも起きてゐる。騒ぎを鎮めようとして負傷した警官の数は100人に及ぶといふ。何が原因であるのか、その詳細を僕は知らないので、何かを書かうと思っても書きようがないのだが、暴動があったことだけは繰り返しテレビニュースで見た。平和な町に暴動が起きるとは嫌なニュースである。テレビの映像では自動車が路上で燃えてゐるのも見た。群衆は怒り狂ってゐるように見える。日本でも過去には民衆の暴動があったが、米価の暴騰が原因であったりした。何も理由がないのに暴動は起きないと思ふ。それでもちょっとしたことですぐに暴徒化しやすい下地ができてゐるのかなとも思ふ。ウクライナ戦争とどのように関連するのかもわからないが、世の中のあちこちが暴力化する傾向はなんとしてでも防ぐべきだと思ふ。暴動の起きた時期がイースターであったことも偶然でないかもしれない。どこまで確かかはわからないが、イスラム教の聖典であるコーランを焼かうとする過激右翼が現れて、その行動に対する抗議であるような話も聞く。どんな宗教も他の宗教に対する尊敬を忘れてはいけないと思ふ。寛容性を持つ宗教は世界を平和に導くが、偏狭な宗教は世界を滅ぼしてしまふ。寛容と忍耐は宗教の条件と思ふ。

Nyköping 川も春めいて

 

屋外テーブル

2022-04-20 (水)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 20 日>(仏滅 癸卯 一白水星)穀雨 Amalia Amelie 第 16 週 第 26740 日

 

町を歩くと、お店の外にも屋外テーブルを設置するレストランが増えてきた。我が家にも庭先に置く屋外テーブルがあるのだが、去年もその前の年も出さなかった。小屋にしまってあるのだが、とって置くのはそれなりに場所を占める。小屋を整理した時に、もし使はないのだったら処分した方が良いのでは?と思った。もし取って置くのなら季節が来たら活用してやるべきではないのかとも思った。それで今日は思ひたって、このテーブルを外へ出してやった。しまってある時は天板と四脚を離してあるので、それらを組み立てて16本のボルトで締めなければならない。この作業に小一時間かかった。僕は性格が内向きなのか、外のテーブルができても、あまりそこでゆっくりとする気になれない。この頃は割と散歩もするし、自転車にも乗るし、水泳もする。どの行為も頭の中は空っぽにしてできることなので、その上にさらに外のテーブルでゆっくりすることになると、頭の中が空っぽになりすぎなのだ。それでテーブルを出すには出したが、この夏どれだけ活用するかはわからない。同居人が使ってくれれば良いのだが。ともかくもこの季節になって、この過ぎ行く季節を賞賛する気持ちだけは味はふことができた。それが何よりもよかったかなと思ふ。

今日は穀雨。毎日良い天気が続いて気持ちが良い

 

終末論

2022-04-19 (火)(令和4年壬寅)<旧暦 3 月 19 日>(先負 壬寅 九紫火星) Olaus Ola 第 16 週 第 26739 日

 

末法思想は仏教のものだが、キリスト教には終末思想がある。つまり、この世にはいつか終はりがきて、キリストが地上の裁きのために天国から再臨することになってゐる。週末の時には、すでに死んだものも改めて裁きを受けることになる。どんな昔の出来事も記録として残されてある。仏教では閻魔大王が冥界の王様として死者の生前の罪を裁く事になってゐるが、それに近い感じがあるかなと思ふ。自分では全然悪いことだと思ってなかったことが、閻魔様からそれは罪だと宣告されることもあるかもしれない。胸に手を当てて悪かったと思ひあたることだけが罪ではないのかもしれない。また、この世の出来事はどんな小さいことも全て記録されてゐるのかなと思ふ。本人がいくら証拠隠滅のために書類を燃やしても、国会答弁で詭弁を弄しても、消え去ることのない情報が宇宙に残るのかなと思ふ。宇宙の姿を見るのに、情報といふ観点から見ることを解説されることがある。情報量はエントロピーと呼ばれるが、なぜ熱力学に出てくる用語であるエントロピー情報理論に出てくるのか、最初のころ不思議に思った。それにはきっと深い意味があるのだ。時の流れとともにエントロピーは増大する。終末論から変なところに想像が及んでしまった。

Nyköping 川の東側区域にある Alla Helgona kyrka