1月25日は中野重治のお誕生日であった。郷土出身の大先輩のひとりである。今年は生誕124年である。その実家は歩いていけるほどの近い距離ではあったが、調べると中野重治が卒業した小学校と僕の出た小学校とは別である。でも僕が中学校に進学する年に、いくつかの小さな町村が合併してひとつの町になった。それまではその地域に中学校がふたつあったが、それを機にひとつになった。けれども新校舎の建設はにはかには進まないので、新1年生は町の東にあった方の学校の校舎で学び、2年生になってから町の南にあるもうひとつの学校の敷地に建設された新校舎で学んだ。1年生の時の通学時には途中の田んぼの中に養豚小屋があって、その近くを通る時は臭い匂いがしたものだった。新しい中学校には校歌もなかったので、入学式には昭憲皇太后の「こんごおせーきもみがかずばー」といふ歌を声を張り上げて歌った。学校の先生方は郷土の詩人であった中野重治に校歌の作詞を依頼したようだが、それができたのは卒業の時であった。曲はまだついてなかったのではないかな、自分で歌った記憶はない。ちなみに、現在はひとつの中学校では不便なのであらうか、町のさらに南の方にもうひとつの中学校が新しくできてゐる。その学校の校歌をどうされたかはわからない。中学校を卒業すると僕は福井市内の高校に進学した。何年生の時であったか、中野重治が講演に来られたことがある。氏にとっては母校での講演であった。せっかくの機会であったのに僕はそのお話の内容を覚えてゐない。文学に興味がなかったせいもあるかな。親に反抗するのが嫌であった僕にとって、自由を求める空気とか社会主義とかいふ雰囲気は馴染めずにゐた。僕は戦後の平和主義の雰囲気で育ったものとしては右翼っぽい考への子供であったから、中野重治氏は大先輩でありながら、なんとなく距離がある人のように思ってゐた。話は飛ぶが、これまでノーベル文学賞を受賞した日本人は、カズオ・イシグロを別にすれば、川端康成と大江健三郎である。川端康成は「美しい日本の私」といふことを言ったが、大江健三郎はそれに同調した見解を持たなかった。僕は自分の身体に流れる体質的なものは川端康成の系統に傾きさうであることを覚える。けれども同時に、大江健三郎的な世界とか、中野重治的な世界も知らないといけない気がしてゐる。
