2025-08-24 (日)(令和7年乙巳)<旧暦 7 月 2 日>(友引 乙丑 二黒土星) Bartolomeus 第 34 週 第 27957 日
毎日新聞の「弔いのカタチ」といふ特集記事を見て少し考へてしまった。亡くなった家族の生前の写真などをAIが学習し、故人がまるで生きてゐるかのようにデジタル空間で再現する技術があって、すでに葬儀などで実用化されてゐるといふ。僕はこんなAIの使はれ方には全面的に反対したい。技術的に可能であるからといって面白半分にやってみて良い問題ではないと思ふ。生と死との間には暗くて深い河がある。「もがり」といふ期間を経て死者は次第に黄泉の国へと旅立って行くのだと思ふ。その厳粛な日々を、残されたものの都合であやふやなものにしてしまふ技術には賛成できない。人は深く悩んだ末にある決断をすることがある。そんな時、もしあの人が生きてゐたら僕のこの決断について何と言ふかなと思ふことがあるかもしれない。それは正解のない問ひかけであり、嫋嫋として色々の考へがまとひつく世界であるのに、AIに意見を述べられてこちらの判断に影響を及ぼすことがあってはならないと思ふ。その様な技術の応用を禁止はできないのかもしれないが、使ってみたいとはさらに思はない。黄泉の国に思ひを馳せる行為のうちにも生命の喜びがあると思ふ。
