2025-08-09 (土)(令和7年乙巳)<旧暦 閏6 月 16 日>(先負 庚戌 八白土星)満月🌕 Roland 第 32 週 第 27942 日
心から愛するものが悲惨な目にあった場合、残された人の悲しみはいつまで経っても消えるものではない。関係ない人からは想像もできないかもしれないが、おそらくそれは当事者にとって、常にとても今日的な悲しみだと思ふ。そんな人たちの悲しみに僕らはどんな風に寄り添ふことができるのかなと思ふ。一般には「去る者は日々に疎し」と言って、時の流れにつれて悲しみもまた遠くへ運び去られるような印象があるが、それは去るものと私との関係が薄いからではあるまいか。長崎の地に原爆が落ちてから80年が過ぎた。犠牲になった人にとても近かった人々も今は年老いて、その悲しみをこれから先どのように受け継いでいくかはむつかしい課題だと思ふ。ただ、1945年の広島と長崎の場合は単なる戦火の跡といふにはあまりにも凄まじいものがあったので、一般的な戦場における被害とは一線も二線も画して語られ続けなければならないと思ふ。原爆を受けて死んでいった人たちの中には「この仇はきっと取ってくれよ」と遺言していくものもあったかもしれない。けれども僕らは今、そのような希望に沿ってあげることはできない。僕らにできることはただ、諸霊の怒り、悲しみ、憎しみ、呪詛に対して、鎮まり給へと祈ることだけだ。本当の苦しみが全然わかってない僕に果たしてこちら側の体面だけのために祈りを祈ることが許されるのかどうかといふためらひはむろんあるのだが、それでも祈るべきかなと思ふ。あんなにも悪いことをしたものたちを神様はどのようにお裁きになるのだらうかと詮索してはいけないと思ふ。天心は蒼蒼として計りがたし。人間世界の心のありようとは無関係に宇宙の摂理は進行するものだ。僕らにできることは戦争をしてしまったことへの深い反省であり、その反省の心を、今なお戦争を続けてゐるものどもの胸の内へ訴へることではないかと思ふ。
