2024-11-10 (日)(令和6年甲辰)<旧暦 10 月 10 日>(先勝 戊寅 一白水星) Fars dag Mårtensafton Martin Martina 第 45 週 第 27664 日
およそ清盛公は、最後の病気のありさまこそひどい状況でおありだったけれども、その生涯全体をひとまとめにしてみれば、普通の人とも思はれぬことが多かった。普通の人でないと云ふのは、つまり神仏の化身ではないかと思はれることが、ままあったといふことである。日吉社へお参りした時も、当家他家の公卿がたくさんお供して、「歴代の摂政関白の家柄の人の春日大社ご参宮、宇治平等院ご参向などを見ても、これに勝ることはなかったであらう」と人々が申したほどであった。(日吉社とは、比叡山延暦寺の一部。桓武天皇が平安京に遷都された時、日吉社は方角として京の鬼門に当たるので、災難よけの社となった。その後延暦寺が勢力を拡大するのに合はせて、延暦寺と一体化した。)また、何と言っても、福原の港に経の嶋を築いて、今の世に至るまで上下往来の船に風波の心配がない様にされたことは結構なことであった。かの嶋は去る応保元年(1161年)2月上旬に着工されたが、同年8月に、にはかに大風吹き大波たち、全部ダメになってしまった。それで応保3年3月下旬に改めて再工事が始まった。この時は阿波民部重能が現場監督になった。公卿たちは、工事が無事に遂行できる様に人柱を立てるべきであらうと議論した。しかしそれは罪なことだと言って、代はりに石の面に一切経を書いて立てられた。そのゆえにかの嶋は経の嶋と呼ばれる様になったのである。(日宋貿易の拠点となった経の嶋は、摂津国大輪田泊(神戸市兵庫区)にある。現在の神戸港の西側、JR和田岬線のあたりか。実際の港湾工事は清盛存命中には完成しなかったがその功績は大きい。清盛の遺骨は円實法眼が首に掛けて京都から運び、この経の嶋に納められたと書かれてある。現在はその近くに清盛塚と呼ばれる十三重の石塔があるが、それは墳墓ではないことがわかってゐるさうである。)