平清盛と西行

2024-11-11 (月)(令和6年甲辰)<旧暦 10 月 11 日>(友引 己卯 九紫火星) Mårten  第 46 週 第 27665 日

 

平清盛西行とは同い年の生まれである(1118年)。ふたりとも若い頃からエリートの北面武士として、鳥羽法皇の院の御所の守りについてゐた。顔見知りの同級生みたいなものだと思ふ。西行はその頃は佐藤義清といった。1140年に出家した。保元の乱(1156年)の時はもう出家の身であったので、いくさとは無縁な生涯であったと思ふ。そのいくさに敗れた悲運の帝王崇徳院の白峯陵を尋ねて四国へ旅したこともある。清盛の死の知らせが届いた時、西行はどんな思ひでそれを聞いたかな。その頃西行は多分伊勢国にゐたのではないかと思ふ。また、清盛は死ぬ前にこの西行のことをどの様に思ってゐたかなとも思ふ。清盛は西行の生き方を心のどこかで羨ましいと思ったかしれないが、西行が清盛を羨ましいと思ふことはなかったのではあるまいか、とまあこれは僕の全く個人的な想像である。また、西行は1186年(といふことは壇ノ浦の戦ひで平氏が滅んだすぐ後)に鎌倉で源頼朝に面会してゐると、吾妻鏡にあるさうである。有名な「命なりけり小夜の中山」と云ふ歌はその頃に陸奥国へ2度目の旅をした時のものと言はれてゐる(小夜の中山は静岡県掛川市にある)。帰ってからは弘川寺(大阪府南河内郡)に庵をむすび、彼の地で、「願はくは花の下にて春死なん」の歌を詠んで、その願った通りの日に、73歳で亡くなった。平家物語の時代は、やがて新古今和歌集が編纂されやうとするその舞台となる時代でもあり、また、道元親鸞日蓮などによって、鎌倉新仏教の新興してくる時代でもある。平家物語を読むことで、そんな時代の雰囲気が少し身近に感じられる気がする。

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