平家物語 巻第五 「都遷 10」

2023-08-23 (水)(令和5年癸卯)<旧暦 7 月 8 日>(友引 癸丑 五黄土星処暑 Signe Signhild    第 34 週 第 27224 日

 

この邦綱卿は富裕層の人であったから、内裏を建設すること自体は大した問題でなかったのだが、さうは言ってもやはり国の出費はあるし、労働作業に駆り出される人たちの苦労もあった。本来ならば、当面の行事としては、大嘗会(新天皇即位後、初めて行はれる新嘗会。(大嘗会は多分、令和の今でも皇室の最も重要な祭儀)。新嘗会は、その年の新しいお米や五穀を祝する祭儀)などを行はなければならないのだが、それを差し置いて、この様な世の乱れに、都を遷したり内裏を建造したり、少しもふさはしくない。「いにしへのかしこき御代には、内裏も茅をふくだけで、軒も整へない質素なときもあった。民家に立ち昇る夕餉の煙が乏しいのをご覧になれば、納税を免除なさることもあった。これはひとえに民をめぐみ、国を助けやうといふ御心であった。楚では霊王が章華の台といふ宮殿を築いたので人民が離れ離れになり、秦では始皇帝が阿房の殿を建てたことがもとで天下が乱れたといふ。古代中国には、堯の時代の様に、宮殿の茅ぶきの軒先を切り揃へもせず、家の色どったたるきを削らず、舟や車に飾りをつけず、衣服に模様もつけない、それほど質素な帝もあったといふ話なのに。また、唐の大宗は、驪山宮を造ったが、民の出費を気にかけられたのであらうか、ついにそこへ行幸されることもなかった。それで、瓦にシダ類が生え、垣に蔦が生い茂って、建設がとりやめになったといふ。その様な話とは今はずいぶん違ふ様だな」と人は言った。

少し歩くと暑いが、それでもジャケットを着て外出。今日は処暑