平家物語 巻第四 「競(きをほ) 1」

2022-12-02 (金)(令和4年壬寅)<旧暦 11 月 9 日>(先勝 己丑 八白土星) Beata Beatrice 第 48 週 第 26960 日

 

コロナで家に閉ぢこもるやうになってから、平家物語を手で写しとる作業を始めたのだが、10月は日本に行ったものだから中断してしまった。この頃少しづつまた続きをやるやうになった。ブログ上も再開しやうかと思ふ。前回は9月25日に巻第四 「信連(のぶつら)」までであった。今日からは「競(きをほ)」である。後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王が奮起して平家に反旗を翻された。が、謀反がバレたといふ急報を受けて、宮が女装して三井寺に逃れられたあたりからである。

宮のお住まひは三条高倉にあった。高倉通を北へお逃げになった。今の高倉通丸太町通に突き当たると、その北は京都御所になるが、この時代には京都御所はずっと西にあったので、もっと北に行くことができたのである。近衞通を東へ進まれた。賀茂川を渡って、今でいへば吉田神社近くを通って如意ヶ岳に逃げられた。女装のお姿のままである。昔、天武天皇がまだ東宮でゐらっしゃった頃、賊徒に襲はれて吉野山へお入りになったことがある。その時に女装された話が伝はってゐるが、今の高倉宮もその時と同じやうである。慣れない山道を夜通し歩きつめられた。そのやうな体験はいつお習ひになったといふこともないので、御足からにじむ血は砂を染めて紅のやうになった。夏草の茂みの中の露けさをお踏みになる事もさぞおつらいことであったらう。かうして明け方に三井寺へお入りになることができた。「生きたところで役にも立たない命が惜しくて、衆徒を頼ってこの寺に来たのだ」と仰せになると、大衆はかしこまり、喜び合って、法輪院に御所を用意した。法輪院とは三井寺南峰にあったお寺である。そこでお食事なども用意して差し上げた。

翌朝は5月16日である。京の町では、高倉宮が御謀反をおこしてお姿を消されたと噂が伝はると、大変な騒ぎになった。そのお噂が後白河法皇のお耳にも入ると、「鳥羽殿をお出であそばすのは御悦びでもあり、御歎きでもある」と占ひ師の泰親が言ったのはこのことであったのか」と仰せになるのであった。

昨日の、プールの前で撮った写真。