学校給食の残りのパン

2019-12-26 (木)(令和元年己亥)<旧暦 12 月 1 日> 赤口 丁酉 七赤金星)新月 Stefan Staffan Annandag jul 第 52 週 第 25885 日

 

堺市定時制高校の先生が学校給食の残りのパンなどを持ち帰って減給処分になったとネットの新聞で読んだ。その先生はこれまでに持ち帰った食べ物の累計実費31万円を払った上で依願退職したといふ。このニュースを読んだ時、どうせ余ったパンなら持ち帰って食べた方が食べ物が無駄にならなくて良いのではないかと思った。この事件は残った食べ物をどの様に扱ふのが良いのかといふ問題を提起してゐると思ふのだが、その様な議論がなくて、単に形式的に教師を処罰するだけなのはをかしいと思った。「食べ物を粗末にしてはいけない」といふことに関してはその考への通りであると思ふ。だが、もしも、最初から余ることを見越した上で計画的に日常的に持ち帰るならば、その行為を讒言するものが現れても不思議ではない。「食べ物を無駄にしてはいけない」思ひを如何にして実践するのが良いかを皆で考へる良い機会ではなかったかなと思ふ。食べ物が余らない様な仕入れ方をするのもひとつの方法ではないかと思ふ。例へば毎日何時から何時までの間に給食を希望する人は届けを出すことにする。食べ物はその数量だけを仕入れる。注文した人だけがその食べ物を受け取る。注文を忘れた人は配給を受けられない。それでも余った場合には、翌日になっても良いから、その余った分を、注文したけど受け取らなかった生徒に押し付けるのだ。古くなった食べ物を食べるか捨てるかは生徒本人の判断と責任に任せる。古い食べ物を渡したと言って学校に責任を問ふのは論外である。注文したのに受け取らなかったことを自分でよく理解し、食べ物を捨てるときの勿体なさを本人に味はってもらふことも大事と思ふ。こんなことを書くと、皆忙しいのに、そんなしち面倒臭い手間なことができるかといふ人もゐるかもしれない。しかし、そもそも人間が食べ物を口にするといふ行為は、大事な命の営みなのだ。肉にしろ魚にしろ野菜にしろ米や麦にせよ、およそ食べ物を口にすることはすべからくこの世の大きないのちの循環を自分の口に運んで体得すべきことなのだ。決しておろそかにすべきではなくて、このことのために多少の手間をかけるのは当たり前のことだと思ふ。現代人の多くはあまりにも当然の様にして食べ物に敬意を払はないのは大きな問題であると思ふ。ちなみに、半世紀前の僕の学んだ高校には給食がなかったが、お昼にパンや飲み物を食べたい人は1時間目が終はった休みに誰か当番の人に頼んで、その人がお昼になるとまとめてお店へ買ひに走った様な記憶がある。当番はその都度じゃんけんで決めたのだったかもしれない。

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散歩すると、幹に印をつけられた木があった。木々を管理する人が居てくれることはありがたい。