平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)5」

2023-01-10 (火)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 19 日>(赤口 戊辰 五黄土星) Sigurd Sigbritt 第 2 週 第 26999 日

 

<興福寺から園城寺への返事の手紙の続き>

 

清盛入道は、勝ちに乗るあまり、去年の冬十一月には、後白河院のお住まゐを追ひ出し、関白を配流にしました。叛逆の甚だしいこと、まことに古今に類例がありません。その時、われらは、本来なら賊衆に体当たりしてでもその罪を問ふべきであったのですが、我々が神慮にはばかることもありましたし、時によって清盛は天皇の命令だと称することもありましたから、怏々とした心を抑へて日々を送りました。そんな状況の中で、重ねて軍兵ををこして、一院第二の親王宮をうちかこむところに、八幡宮に祭られた応神天皇神功皇后玉依姫の三神、春日の大明神、ひそかに影向をたれ、乗り物を差し上げて、貴寺に送りつけて、新羅明神の扉にお預けになりました。王法尽きるべきでないことは明らかです。従ってまた貴寺が身命を捨てて宮様をお守り申し上げること、人たるものの誰が随喜しないことがありませうか。

冬の夕暮れでも少しの明るさがあれば元気になれる

 

平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)4」

2023-01-09 (月)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 18 日>(大安 丁卯 四緑木星)成人の日 Gunnar Gunder 第 2 週 第 26998 日

 

<興福寺から園城寺への返事の手紙の続き>

 

ところが去る平治元年十二月、後白河上皇が一度の戦争(平治の乱のこと)の功労に感心して並びない賞をお与へになってからといふものは、清盛は高く相國にのぼり、護衛人付きの身分になりました。男子が生まれれば大臣や近衛の大将に連なりました。女子が生まれれば中宮織や准后の宣を受けられました。群弟庶子は皆公卿となり、その孫、かの甥、ことごとく国司に任じられました。そればかりでなく、日本全土を頭領し、百官の任免を意のままにし、国家の奴婢を個人の召使ひにしました。毛筋ほどでもその心にたがへば、王侯といへどもこれをとらへ、片言耳に逆らへば公卿といへどもこれを逮捕しました。こんなふうな次第でしたから、あるひは一旦の身命をのばさうとして、あるひはちょっとの間の辱めを逃れやうとして、万乗の聖主猶面前に媚びへつらひ、藤原氏のやうな重代の家君すらかへって膝行の礼をとる有様です。代々相伝の家領を奪はれても、上宰も恐れて何も言はず、宮々は相承の庄園を取られても、権威にはばかってものをいふこともありません。

気温は上がったけど、気圧は低めで、雲が地上に降りてきた様

 

平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)3」

2023-01-08 (日)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 17 日>(仏滅 丙寅 三碧木星) Erland 第 1 週 第 26997 日

 

さて、興福寺ではこの手紙を読んで早速に返事を書いた。それには次の様に書かれてあった。

 

興福寺から園城寺の寺務所にお手紙を差し上げます。

送られた牒状1枚に載せられてをりました。右、入道浄海のために、貴寺の仏法が滅ぼされやうとする件

天台宗法相宗はそれぞれの教義をたててをりますが、経文の章句はすべて釈迦一代の説教から出てゐます。南京(奈良)も北京(京都)もともにもって如来の弟子であります。釈迦の従弟で仏の敵となった調婆達多のやうな魔障は、自寺他寺とも互ひに降伏させなければなりません。そもそも清盛入道は平氏の貧しき身分であり、取るに足りない武家でした。祖父正盛は蔵人五位の家に仕へて、諸国受領の鞭をとってをりました。大蔵卿為房が加賀守であった時、その国の検非所で使はれ、修理大夫顯季が播磨守であった昔に、その国の馬を司る役所の別当になりました。そんな程度であったのに、親父忠盛が昇殿を許される事になって、そのニュースを聞いた都鄙の老少は皆、仙洞御所にをられた鳥羽上皇の御失敗を残念に思ひ、仏教と儒教の優れた学者達は日本の将来を憂へたものでした。忠盛は立身出世をして、精一杯威儀を整へましたけれども、世の民は皆、卑しい素性を軽んじたものでした。名を惜しむ青侍はとてもそんな家に仕へやうとはしませんでした。

雨になったこともあり、散歩をサボったら写真を撮りぞこねたので、昨日の写真を載せます

 

平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)2」

2023-01-07 (土)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 16 日>(先負 乙丑 二黒土星)満月 August Augusta 第 1 週 第 26996 日

 

高倉の宮が突然に御身をお寄せになったものだから、三井寺の僧たちは驚き、発奮し、これを機会に平家を懲らしめやうと決意したけれども、まともに戦へば負けてしまふ。それで北嶺(比叡山)と南都(奈良)に応援を求める手紙を書いたのだが、比叡山からは全く相手にされなかった。もう一方の奈良の方からはどんな反応があっただらうか。まづは、三井寺が奈良に向けて書いた手紙から見る。

 

園城寺から興福寺の寺務所にお手紙を差し上げます。

ことに力を合はせて、当寺の破滅を助けていただきたいお願ひの件

右、仏法がことにすぐれてゐるわけは王法を守るためであります。王法がまた長久なることは、すなはち仏法によります。ここに入道前太政大臣朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに国威を私物化し、朝政を乱れさせ、朝廷の内外で人を怨ませ嘆かせてをりましたところ、今月十五日の夜になって、一院第二の王子(高倉の宮、以仁王)が、不慮の難を逃れやうとして、急に我が寺にお入りになりました。ここに上皇院宣だといふ触れ込みで、高倉の宮をお差し出し申し上げよと、平家からは強い要求があるのですが、衆徒一向は宮様を大切にしてをります。すると、成り行きとして、かの禅門(清盛公)は武士を当寺に押し寄せやうとします。仏法と云ひ王法と云ひ、一時に破滅の危機に瀕してをります。昔、唐の會昌天子は、軍兵をもって仏法を滅ぼさうとした時、清凉山の衆は、合戦をしてこれを防ぎました。帝王の権力で仏教に立ち向かってさへもこの通りでしたから、謀反八逆のものに向かふのは何でもありません。なかんづく奈良では関白藤原基房殿が無実のまま配流せられました(興福寺藤原氏の氏寺であるので、このことが強調された)。その会稽の恥をそそぐのに、今度の機会を逸すれば、もうチャンスはないことでせう。願はくは、衆徒、内には仏法の破滅を助け、外には悪虐の伴類を退けることができれば、心を合はせること、本懐に足ります。衆徒が話し合った内容はこの通りでした。よって牒奏くだんのごとし。

  治承四年五月十八日      大衆等

と書かれてあった。

あたりはまた白くなった。

 

Trettondedag jul

2023-01-06 (金)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 15 日>(友引 甲子 一白水星)小寒 Trettondedag jul Kasper Merker Baltsar 第 1 週 第 26995 日

 

クリスマスから数へて13日目の今日はスウェーデンでは割と大きな休日である。クリスマスの飾りを外す日でもあるが、これは2段構へになってゐて、クリスマスから数へて20日目に外すこともある。日本で言へば、松ノ内が終はる感じかもしれない。我が家では Adventljus はもう1週間はつけたままにする事にした。ところで、娘と旦那と孫の3人は昨日から泊まりがけで来てくれた。我が家の小さなアパートでは寝泊まりが難しいこともあり、海辺のキャンプ場にある宿泊設備ではどんな具合か試してみやうと言って、来てくれたのである。孫とはトランプをして遊んだ。神経衰弱も一回だけ試してみたが、孫は年老いた僕らとは全然違ふ記憶の明晰さを持ってゐることがわかった。若さには勝てない。3人は夕方までゐて、電車で帰るといふので、町の鉄道の駅まで送って行った。気温は氷点下4度で、吹雪く悪天候となった。今回の試みを総合すると、これからはやはり僕らの方が Stockholm へ行く方が良いねといふ事になった。でも、来てくれようとする気持ちが嬉しいと思ふ。同居人共々楽しい休日を過ごした。

今日は小寒、外は吹雪。

 

平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)1」

2023-01-05 (木)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 14 日>(先勝 癸亥 一白水星) Trettondagsafton Hanna Hannele 第 1 週 第 26994 日

 

比叡山の僧たちはこの手紙を受け取ると、「これはどういふことだ。三井寺と云へば当山の末寺ではないか。そんな分際でよくも、鳥の左右の翼の様なものだとか、車のふたつの輪の様なものだとか、でかい態度で言ふのはけしからん」と言って、返事の手紙を書かなかった。実は入道相國(清盛)は、天台座主明雲大僧正に、衆徒が騒がないやうにと通達してあった。当時、座主や主だった僧侶たちは比叡山の麓の坂本の里坊に住んでゐたのだが、座主は急いで比叡山に登り、大衆をしづめられた。こんな次第であったから、高倉の宮の方へは、味方をするかどうか未定だと言ってをいた。その上、入道相國は訪問の手土産として、近江米二万石、北國の織延絹三千疋を比叡山に贈った。これらを谷々、峯々で配って歩いたものだから、にはかのことではあり、一人でたくさん取るものがあるかと思へば、手をむなしうしてひとつも取らぬものもあった。何者の仕業であらうか、落書が書かれた。

山法師おりのべ衣うすくして恥をばえこそかくさざりけれ

(織延絹とは薄手の絹であったらしい。山法師が織延絹で作った衣は薄いので透けて見えて、絹を取りあった恥を隠すことができない)

また、絹をもらへなかったものがよんだ歌であらうか、こんな落書もあった。

おりのべを一きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入るかな

(織延絹を一きれももらへなかったわれらなのに、もらった奴らと一緒に恥をかくことになってしまった)

Jogersö といふ場所にあるキャンプ場。冬でも設備を利用する人があると聞く。

 

平家物語 巻第四 「山門牒状(さんもんへのてうじやう)」

2023-01-04 (水)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 13 日>(赤口 壬戌 二黒土星) Punktskriftensdag Rut 第 1 週 第 26993 日

 

三井寺では貝の鐘を鳴らし、たくさんの僧たちが集まって会議をした。話し合った内容は次の様なものであった。「最近の世間の様子を眺めてみると、仏法は衰へ、王法は限られて伸びない状況となってゐる。今、清盛入道の暴悪を戒めなければ、いつできるだらう。今をおいて他にないではないか。高倉の宮がここにお入りになったことは、正八幡宮の衛護、新羅大明神(三井寺鎮守神素戔嗚尊)の冥助ではなからうか。天地の神の眷属も姿を現し、仏力神力も怨敵降伏にきっと力を貸してくださることであらう。そもそも北嶺(比叡山)は天台宗の学問をするところである。南都(奈良)は一夏九十日間修行して僧侶の資格を得る戒壇の場所である。当寺から牒状を送ればどちらもきっと味方してくれることであらう。」この様に結論を出して、南都と北嶺にお手紙を書いたのだが、このうち、比叡山にあてて書いた手紙は次の様であった。

 

園城寺から延暦寺の寺務所にお手紙を差し上げます。

ことに力を合はせてくださって、当寺の破滅を助けていただきたい件

右、入道浄海(平清盛)は自分勝手な行ひで、王法を失ひ、仏法をほろぼさうとしてゐます。その嘆きの極まりないところに、去る十五日の夜、一院第二の王子(高倉の宮)がひそかに入寺されました。ここに院宣法皇様の命令)と称して高倉の宮を引き渡せと要求があるのですが、お渡し申し上げることなどできません。それで清盛は官軍を派遣するといふ噂があります。当寺の破滅はまさにこの時に迫ってゐます。天下の人々はどうしてこれを愁ひ嘆かないことがあるでせう。なかんづく延暦・園城の両寺は門跡がふたつに分かれてをりますけれども、学ぶところはこれ天台宗の法門であり、もともと同じものです。例へて言へば鳥の左右の翼の様なものであり、あるいは車のふたつの輪の様なものであります。その一方が欠けた場合には大きな嘆きとなりませう。しかればここで特にご協力くださって、当寺の破滅を助けてくださるなら、早く年来の遺恨を忘れて、同じ山に住んでゐた昔の状態に復することにもなりませう。衆徒の話し合ひの結果はかくの如しです。よって牒奏くだんのごとし。

  治承四年五月十八日      大衆等

 

と書かれてあった。

 

Nyköping川にて