平家物語 巻第四 「南都牒状(なんとてうじやう)1」

2023-01-05 (木)(令和5年癸卯)<旧暦 12 月 14 日>(先勝 癸亥 一白水星) Trettondagsafton Hanna Hannele 第 1 週 第 26994 日

 

比叡山の僧たちはこの手紙を受け取ると、「これはどういふことだ。三井寺と云へば当山の末寺ではないか。そんな分際でよくも、鳥の左右の翼の様なものだとか、車のふたつの輪の様なものだとか、でかい態度で言ふのはけしからん」と言って、返事の手紙を書かなかった。実は入道相國(清盛)は、天台座主明雲大僧正に、衆徒が騒がないやうにと通達してあった。当時、座主や主だった僧侶たちは比叡山の麓の坂本の里坊に住んでゐたのだが、座主は急いで比叡山に登り、大衆をしづめられた。こんな次第であったから、高倉の宮の方へは、味方をするかどうか未定だと言ってをいた。その上、入道相國は訪問の手土産として、近江米二万石、北國の織延絹三千疋を比叡山に贈った。これらを谷々、峯々で配って歩いたものだから、にはかのことではあり、一人でたくさん取るものがあるかと思へば、手をむなしうしてひとつも取らぬものもあった。何者の仕業であらうか、落書が書かれた。

山法師おりのべ衣うすくして恥をばえこそかくさざりけれ

(織延絹とは薄手の絹であったらしい。山法師が織延絹で作った衣は薄いので透けて見えて、絹を取りあった恥を隠すことができない)

また、絹をもらへなかったものがよんだ歌であらうか、こんな落書もあった。

おりのべを一きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入るかな

(織延絹を一きれももらへなかったわれらなのに、もらった奴らと一緒に恥をかくことになってしまった)

Jogersö といふ場所にあるキャンプ場。冬でも設備を利用する人があると聞く。