2025-02-18 (火)(令和7年乙巳)<旧暦 1 月 21 日>(先負 戊午 一白水星)雨水 Frida Fritiof 第 8 週 第 27765 日
僕らは高校時代に「無知の知」といふ言葉を習った。「自分に知識がないことを知ったものは、それを気づかずにゐるものより賢い」くらいの意味かなと思ふ。「それなら僕は最初から何も知らないのだから、そのことを知ってゐる僕は既にして賢いのではないかしら」と高校生であった僕は思ったものだった(僕だけではないと思ふが)。会社を定年退職して年金生活に入ったのはもう10年以上も前だったが、これからの自由時間には何をしようかと考へた時、コンピュータサイエンスの様な進歩の早い分野の後を追ふのはよそうと思った。それよりもむしろ、高校生の自分に戻って、高校で学ぶことをもう一度落ち着いて学び直してみてはどうかと思ひあたったのである。平家物語を自分の手で紙の上に写しとってみることを思ひついたのもその考への延長にある。源氏物語はハードルが高いが、平家物語ならとっつきやすく感じられたこともある。また、歴史などは、日本史も世界史もほとんど何も知らないし、少しかじってみると、本当に知らないことばかりで我ながら驚いてしまふ。ああ、これが「無知の知」といふことだな、と思ってしまひさうだが、実はこれが大きな誤解なのだ。哲学者の納富先生のお説によれば、「知ること」と「思ふこと」が如何に違ふかが急所なのであるといふ。正しいことを主張する人がゐても、その根拠をきちんと把握してゐなければ、それは思ってゐるだけであって、知ってゐることにはならない。まして思ひつくことさへもできない対象であればそれは「知ること」からうんと遠いのである。自分ではもう既に知ってゐるつもりであったことなのに、改めてよく吟味してみると、「わかってないぢゃないか」といふことになる。こんなふうに思ふと、「無知の知」といふ言葉は誤って解釈されやすい。それを是正するために納富先生は「不知の自覚」といふ表現を提唱された。なるほどと思った。なお、今日のブログは「NHK出版新書「哲学史入門 I」(斎藤哲也著)を見て書いた。
