平家物語「善光寺炎上」

2021-06-04 (金)(令和3年辛丑)<旧暦 4 月 24 日> (先負 癸未 五黄土星)  Solbritt Solveig    第 22 週 第 26410 日

 

その頃、善光寺も焼けたといふニュースがあった。善光寺とは、信濃のあの善光寺である。昔、中天竺舎衛国(祇園精舎があったとされる古代インドのコーサラ)に五種の悪病(目が赤く血のような病、耳から膿が出る病、鼻から血を出す病、舌に声がない病、食物がこなれない病)が流行った。これらの病気で多くの人々が亡くなった。月蓋長者(がっかいちょうじゃ。古代インドの大富豪)が祈念して、竜宮城より閻浮檀金(えんぶだごん、閻浮提の閻浮樹林を流れる河底の金砂)をもらって、釈尊と目蓮(釈迦の十大弟子のひとり)とこの月蓋長者が心をひとつにして仏像を鋳た。一ちゃく手半(一ちゃく手は手の親指と中指をいっぱいに伸ばした長さ)の阿弥陀如来と観音・勢至の両菩薩は閻浮提で第一の霊像とされた。その仏像は、釈迦が亡くなった後も、天竺(インド)に500年あり、仏法が東に広まると百済国にお移りになった。百済国に1000年安置されてゐた。百済の御門聖明王、吾朝の御門欽明天皇の御代に、日本にお移りになった。(仏教伝来に反対した物部氏の意向によるといふものか)摂津国難波の浦に置かれて何年かが過ぎた。いつも金色の光を放つ仏様であるので、年号を金光と号した(この年号は私年号である)。同じき3年3月上旬(と書かれてあるが何が同じきだか分からん)に、信濃国の住人麻績(おうみ)の本太善光(ほんだよしみつ)といふ人が、都へ上った時、その仏様に逢った。善光はこの仏様を信濃国で安置しようと思って、そのままお連れ申し上げた。昼は善光が如来を背負ひ申し上げ、夜は善光が如来に背負はれて、信濃国に着いた。水内(みのち)の郡に安置された。それからすでに580年以上経つけれどもその間、お寺が炎上するようなことはなかった。「王法が尽きようとする時は仏法がまづ滅びる」といふ。さうであるからだろうか、「比叡山も荒れ果てたし、善光寺も焼けた。こんなにも尊い霊寺霊山があちこちで滅びるのは、平家の世も末になったことの先触れでもあろうか」と人々はいふのだった。

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夜は遅くまで明るいし、暑からず寒からず、快適なこの頃である。