崇徳院

2021-03-18 (木)(令和3年辛丑)<旧暦 2 月 6 日> (先勝 乙丑 八白土星) Edvard Edmund  第 11 週 第 26333 日

 

昨日は平治の乱に関することを書いたが、その3年前に保元の乱があった。鳥羽天皇は1123年に崇徳天皇に位を譲られて、自らは鳥羽上皇になられた。ところが新しいお后美福門院との間に皇子が生まれると、その皇子が3歳になるのを待って近衛天皇として即位させておしまひになった。崇徳天皇は退位させられたわけであるが、すると上皇が、鳥羽上皇崇徳上皇とお二人になってしまふ。それで人々は崇徳上皇を新院とお呼び申し上げた。新院は怏々として楽しまぬ日々をお過ごしになった。1155 年、近衛天皇は17歳のお若さで崩御。新院は次の天皇こそ我が子重仁親王にと望まれたのであるが、鳥羽法皇はその希望を無視して新院の弟君である雅仁親王皇位を授けておしまひになった。これが後白河天皇である。翌年1156年7月、鳥羽法皇崩御。するとたちまち政変が起きて、保元の乱が起こった。新院は武力闘争する気持ちなどお持ちにならなかったと思ふが、周囲から擁立される様にして後白河天皇と戦ふ羽目になられた。保元の乱は武士の時代の到来を象徴する事件でもあった。敗れた崇徳上皇は、尊いお身分でありながら讃岐に流罪となった。歴代天皇の中で最も悲運の君であると思ふ。西行は、崇徳院がお亡くなりになった後に讃岐を尋ねて

よしや君 昔の玉の 床とても かからんのちは 何にかはせん

と歌った。また、

ここをまた われ住み憂くて 浮かれなば 松はひとりにならんとすらん

といふ歌もあるが、この松とは暗に崇徳院を指すのだと何かの本で読んだ気がする。そのほか、藤原定家小倉百人一首を編んだ時、崇徳院

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

といふ歌を載せた。定家の崇徳院への思ひをそこに見る気がする。崇徳院上田秋成雨月物語にも出てくる。

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日本ではそろそろ花便りも聞かれる頃か