平家物語「額打論1」

2020-06-06 (土)(令和2年庚子)<旧暦閏 4 月 15 日> (赤口 庚辰 八白土星)満月 Gustav Gösta Sveriges nationaldag Svenska flaggans dag 第 23 週 第 26048 日

 

平家物語」は、平氏の先祖をたづねて平忠盛が昇殿を許されたところから書き始められてゐるけれども、すぐに平氏全盛の時代に移ってしまふ。その間にあった重要な保元の乱平治の乱については記述が少ない。その点、吉川英治の「新平家物語」はその辺が詳しく書かれてゐた様に記憶してゐる。暇に任せて「平家物語」の「二代の后」まで写し取ったが、このあたりは後白河天皇二条天皇に位をお譲りになった後で、平治の乱にさしかかる頃である。俄か勉強したことを少しメモで書きとめる。理解のをかしいところがあるかもしれない。当時、二条天皇の朝廷より後白河上皇院政の方に力があったけれども、その実権を握ってゐたのは信西であった。藤原信頼が中心となって打倒信西の動きが活発になった。清盛が平氏一門を引き連れて熊野灘に向かったすきに信頼と義朝らの軍勢が後白河上皇の御所・三条殿を襲撃した(1159年)。上皇源義朝に守られて内裏にお移りになる。信西は逃げ切れずに自害する。この乱で勝者となった藤原信頼は有頂天になって目に余る行為が目立ち、周囲からの顰蹙を買った。すぐに打倒信頼の動きが起こった。熊野から戻った清盛も一計を案じた。二条天皇を御所から密かに清盛の館へお連れして、信頼を打てと命令を下してもらふのだ。厳しい見張りの目をすり抜けるために天皇は女装して御車で内裏から移動された。この辺、ゴーン元会長の木箱に隠れて自家用ジェット機で脱走した事件を思はせるものがある。この時後白河上皇仁和寺に避難されて、御所は天皇上皇も不在となった。信頼の頼るところは源氏しかない。源義朝不本意にも平氏と戦はなければならなくなった。信頼は後白河上皇を頼って仁和寺に逃げ込んだが、捕らへられて処刑された。かうして、「保元に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、すゑずゑの源氏ども或は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさしいだす者なし」。清盛の継母池禅尼の懇願によって義朝の嫡男頼朝の命が助けられたのはこの戦後処理での話である。この後、平氏は全盛時代を迎へるのだが、ふたつの乱を鎮めたことに対して清盛に与へられた報酬はあまりにも大きかった。それは日産を再建したゴーン元会長がその後あまりにも大きい報酬を得たことと似てゐるかもしれない。いづれの場合も「奢れるものは久しからず」といふ真理に導かれて事態は推移する。なほ、二条天皇平治の乱の後、5年ほど経った永萬元年(1165年)の春の比より御不豫の御事ときこえさせ給ひ、急遽譲位される。新天皇はまだ2歳の六条天皇。こんなに幼少の践祚は先例がない。「物さはがしともおろかなり」。二条天皇上皇となり、そのわづかひと月後、23歳で崩御。2歳の六条天皇は在位期間2年8ヶ月。まだ記憶も芽生えないほどの幼年で叔父の高倉天皇に譲位された。

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今日も時々雨が降り、肌寒い様な外気の中を散歩した。