ベーシックインカムといふ名のマナ

2020-12-23 (水)(令和2年庚子)<旧暦 11 月 9 日> (先勝 庚子 六白金星) Drottningens födelsedag Adam   第 52 週 第 26248 日

 

コロナの席巻により多くの産業が停滞して、生活できなくなる人が増えつつあるとニュースで見る。そんな流れの中でベーシックインカムに関する新聞記事を見ることもある。ベーシックインカムの制度の導入に僕は基本的には賛成なのであるが、これが果たしてうまく社会の問題を解決するかどうかについては疑問な点もある。その制度がうまく行くかどうかは、それを導入する側の問題ではなくて、それを受ける側の人々の心の問題に帰着するからだ。そんな問題であれば、導入する側がいくら努力しても良い結果にはならないと思ふ。その昔、イスラエル人たちはモーセに導かれてエジプトを出た。シンの荒野まで来た時に食べるものがなくなった。その時、主は彼らの宿営の周りにマナを降らせた。人々は日々宿舎を出てその日の分のマナを集めて食べることになった。ただし、安息日には食べ物を集めに出てはいけないので、その前日に二日分のマナを集めることができた。このお話は歴史の物語であるかもしれないが、現代を生きる人々にも通じるものがある。人には苦難が訪れることがあり、そんな時にどの様に生きて行くかを象徴的にさとす物語として、誰の心にも響くものがあると思ふ。もしも、ベーシックインカムを受ける人々に、これは現代のマナであると想像を膨らませる感性があるなら、このシステムはきっとうまくいくと思ふ。その場合には、「人はパンだけで生きるものではない」といふイエス・キリストの言葉につながるものを感じられるのではないかと思ふ。僕はキリスト者ではないのだが、その辺のところは理解できる様な気がする。ベーシックインカムは現代のマナである、さう思ふことのできる人が少ない場合には、その制度の導入は失敗する様な気がする。世の中が良くなるかどうかを政治家の指導力に委ねるだけではダメな時代だと思ふ。

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夕空に上弦の月