お題目

2019-05-15 (水)(令和元年己亥)<旧暦 4 月 11 日>(友引 壬子 七赤金星) Sofia Sonja 第 20週 第 25661 日

 

日蓮宗では、お題目として「南無妙法蓮華経」と唱へる。日蓮法華経こそは真の経典であると主張した。世の中は貧困、飢饉、疫病の流行、盗賊の横行に苦しむ中であったが、法華経を信じることによってしか人々は救はれないと説いた。法華経を信じ、賛嘆する言葉としてこのお題目が生まれた。これが浄土宗や浄土真宗になると、お題目とは言はないが、「南無阿弥陀仏」と唱へて、阿弥陀仏におすがりする言葉になる。一切の努力を放擲して、しょっぱなから最後の切り札におすがりしてしまふ印象もないではないが、当時はそれだけ世の中が厳しかったこともあるかしれない。僕は曹洞宗の家に生まれたのだが、禅宗では「南無」で始まる言葉をあまり聞かない。いや、修証義の中に、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」といふ言葉はある。一般に仏教では仏・法・僧の三宝を深く信仰する事を「南無三宝」といふ。失敗した時に「なむさん」と呟くのはこの言葉から来てゐるらしい。道元は只管打坐(しかんたざ)と言って、ただひたすら座禅に打ち込むことが修行であると言った。その意味ではお経を唱へることも修行の本質ではないのかもしれないが、禅宗のお寺でもお経をあげていただくことはよくある。お料理をしたり、お食事をしたり、お茶を飲んだり、お掃除をしたり、立ったり座ったり、歩いたり止まったり、日常生活の何気無い動作の中に修行があるとされる。自分に不利なことや辛い事を進んで引き受ける気持ちが修行の第一歩なのかもしれないが、「しなければ」と思って自らに強制する修行は修行ではない気もする。

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夕方のいつもの散歩道で