聖職という言葉

火 旧暦6月27日 友引 庚午 六白金星 Olof Färöarnas nationaldag V31 21720日目

大分県で教員採用の汚職事件があってから、教員採用試験の透明化が全国各地で課題になっている。試験の解答をインターネットでオープンにする地域があるとか、それを通じて自己採点もできて透明であるとか言っているけれども、そもそも教員採用を簡単なペーパーテストで決めること自体がおかしいのではないだろうか。先生の適性が試験で測られるとは思えない。教育というものは知識の切り売りではない。全人格をかけて、若い魂を育てる事業である。かつては聖職という言葉があった。お寺のお坊さん、学校の先生は聖職とみなされた。あるいは人の魂を救い、あるいは人の魂を育てるがゆえに、お坊さんや先生は聖職とみなされたのである。今、聖職という言葉は死語に近くなった。お坊さんの多くはひと月にどれだけ葬式が出るかを営業的に見積もるだけの職業人になった。けれども、目立たないところでごく一部には、昔の聖職をそのまま引き継いでいる人もあるはずである。そのような少数派の人たちに一縷の望みを託して声援を送りたい。