2024-12-29 (日)(令和6年甲辰)<旧暦 11 月 29 日>(先負 丁卯 四緑木星) Natalia Natalie 第 52 週 第 27713 日
人は誰でも「もし自分が死んだらどうなるのだらうか」といふ疑問を持つ。魂は肉体から離れて生き続けるのかとか、自分の死後もこの世界はあり続けるのかとか、一切は空であるのかとか疑問は果てなく広がる。孔子は弟子の子路が死について尋ねた時、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と答へた。「まだ生きてゐることについてさへよくわかってないのに、死についてなどわかるはずもない」と答へたといふ。死んだ後のことを考へるよりも、今、生きてゐる間のことを考へる方が重要だといふ意味である。孔子は紀元前5世紀頃の人だが、紀元前6世紀から5世紀ごろの人であらうと言はれる釈迦も実は同じ様なことを毒矢の例へをもって言はれた。毒矢の例へとは次の様な話である(薬師寺のホームページの加藤朝胤菅主による法話から引用)。
そこでお釈迦様は、ある喩えをもってマールンクヤにお説きになりました。「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんな鏃やじりがついていて、弦つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。
ここでもまた、お釈迦さまの説くところは、人間の思考力をもってしては解決できない様な色々の形而上学的問題には首を突っ込んではいけないといふことである。この辺が儒教や仏教が西洋哲学と袂を分かつ境界かな思ふ。でもさうは言はれても、量子力学などの現代物理学が明かすこの世界の時空の仕組みや宇宙の姿を少しでも深く理解しようとすれば、その理解は「人はいかに生きるべきか」といふ問ひに計り知れないほどの大きな影響を与へることは十分にありうる。その一方で、もし物理学者がこの世界の仕組みを完璧に説明できたとして、それでもなお、それがそのまま「人はいかに生きるべきか」といふ問ひの答へにはなり得ないのではないかとも思へるのである。であれば、やはり、色々の形而上学的問題についてあまり深く考へるのはよほど注意をせねばならないのかなとも思ふ。なお、今日の記事は、「原始仏典(ちくま学芸文庫・中村元著)」を参考にして書いた。
