安物の時代

2018-11-15 (木)(平成 30 年戊戌)<旧暦 10 月 8 日>(大安 辛亥 四緑木星)上弦 Leopold  第46週 第 25481 日

 

「安物買ひの銭失ひ」といふ言葉があるが、平成初期の価格破壊、デフレの時代を経て、今でもあの言葉は有効なのであらうか。例へば靴などの場合には、そこそこの手頃な値段のものを買って履き、靴がくたびれてきたら捨てて新しいものを買ふのもひとつのやり方である。値段の高い靴を買ったとしても靴の底はやはりすり減るから、時々修繕したりするのに新しい安い靴を買ふのと変はらないくらいお金がかかるかもしれない。けれども、ゴミを出さない方針や、モノへの愛着といふ観点からすれば後者のやり方が良いのかもしれない。買物をする時、どんな品質や程度の品物を買ふのが一番賢いかは難しい判断である。僕が若かった頃は、オーディオ製品を買ふ場合でも、多少お金を出してでも長く使ふことができるものを選びがちであった。だが、しばらくするとコンパクトステレオが主流になり、若い時の高い買物は、場所はとるし、正しい判断であったかどうか分からなくなった。けれども、今でも大事に持ってゐる製品もあるから、その意味ではあながち失敗ではなかったかもしれない。最近の製品は一般に安価なものが多い。そして、儲けなければならないせいか、早く寿命が来る様に出来てゐる。必然的にゴミが増える。また、長持ちしたとしても、ソフトウエアの進展が早くて、古いハードウエアの上では最新のソフトウエアが作動しない状況も起こりうる。一昔前は撮影した写真も CD に焼いて保存したものだが、永遠に読み出しができるものではないだらう。アルバムを厳選して紙にプリントした方が長く保存できる可能性もある。今やクラウドの時代であるから、そんな心配は要らないのかもしれない。一度クラウドに載せてしまったものは、幸か不幸か後で消したつもりでもどこかに残るものらしい。人類の文明が存続する限りはデータは保存されることと思ふが、かつての地上の古代文明はことごとく消滅した。栄枯盛衰の世の習ひの中で、永遠に存続する文明など無いと心得なければなるまい。話が脱線してしまったが、現代は高い製品を選んで買って、それを一生大事に使ふ時代ではなくなった。昔の人はお裁縫の針の1本が折れても供養したものだった。ああ、僕は、ゴミとなって捨てられて行く大量のモノたちのために、供養してやりたいと時々思ふ。

 

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木の間より 日のこぼれきて 冬近し