仮想と現実

水 旧暦 8月7日 友引 庚辰 五黄土星 二百二十日 Dagny Helny V37 23591日目

織田信長は幸若の一節を好み、「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」と舞ったと言い伝えられている。人生は短く儚いという意味であろうが、やや別の意味で、人生はやはり幻ではないかと思われる時もある。現実に生きるこの世界とは何と確固たる実在感にあふれているのだろうと思う反面で、この実在感は、結局は自分の目や耳や五感で感じ取るだけの世界ではないかと思われることもある。己が消滅する時には、世界はそれとは無関係に存在を続けるであろうが、その存在をもはや誰が認識できると言うのだろうか。宇宙があって、銀河があって、地球という星があって、僕が居る、友達が居る、悪いやつも居る、この世界は疑いようの無い現実であるかに見えて、実はもっとバーチャルなものではないか、というようなことを思う。宇宙の起源はどうであったか、宇宙の果てはどうなっているのか、研究したい人はどんどん研究して構わないが、本来世界はバーチャルなもので、答えは無いということはないだろうか。本当は世界のありようはもっと多様にできているのだが、自分の産まれた環境では、悠久たる人類の歴史のはてに、広島長崎に原爆が落ち、世界に飢餓に苦しむ子供たちがいて、間近くは祖国が津波に襲われたり、原発事故が起きるような世界を選び取って生きている。森羅万象は自分に無関係に起こるように見えて、実はそこには自分の生き方が投影されていて、因果応報の摂理が現れているだけかもしれない。そのような苦しみの無い世界も、僕たちに気づかないところに本当はあって、誰でもうんと修行を積めば、そういう世界にワープできるような想像をしてしまうことがある。そういう世界もまた、バーチャルなものであるかも知れないのだが。