自分を探す旅

土 旧暦 7月25日 先勝 己巳 七赤金星 Arvid Vidar V35 23580日目

「自分とは何か」を探す旅は、「自分の本当に好きなことは何か」を探す旅でもある。昨日の千住真理子さんの文章に、お父様が「趣味を持つべからず」という方針であられたことが書かれていた。そこに重要なヒントがあるような気がする。実は僕もまだ日本に住んでいた頃、似たようなことを思ったことがある。無意識のうちに自分の本当に好きなことは何かを探していたのだと思う。それがなかなか見つからないので、ある日、消去法を思いついた。何かをやりたい、という気持が起きたら、まずそれをしないで我慢してみる。一日我慢し、二日我慢し、とうとういつまでも我慢できるのであれば、それは自分が本当に好きではなかったと判定するのである。こうして最後に我慢しきれないものが残ればそれが自分の本当に好きなことではないかと思ったのである。この演習の一環として、僕はお酒をやめた。お酒は僕の本当に好きなものではなかったということである。今ではもう固いことを言わずに付き合いで適当に飲むが、当時は5年ほどの間、徹底的に酒をやめて、忘年会でも新年会でも送別会でも二次会でも、ともかくどのような機会でも一切の酒を断ち、代わりに水を飲んだ。n滴の酒を飲んでしまえば、n+1滴の酒を飲むのに抵抗がない。それを防ぐにはn=1が成立しないようにすることだ。そういう理屈のもとに自分に対し1滴の酒も認めなかった。後年、僕はひょんなことから日本の会社を辞めてスウェーデンに移り住むことになったのであるが、そういう運命が与えられたことと、若い日に自分を探そうという演習を続けたこととの間には、目には見えない因果関係があったのではないかという気がしている。そこには全く論理的なつながりは無いのだが、それでもやはりそう思う。そもそも忍耐に目的は無い。何でも無闇に忍耐すれば良いと言うものでもない。しかし、忍耐の後には結果として豊かなものが与えられる可能性が高いのではないだろうか。やがて僕は年金生活という新しいステージを迎える。改めて若き日を思い、自分を探すことの意味をもう一度問い直す時に来ていると思う。