お家

月 旧暦 12月17日 仏滅 甲午 四緑木星 Karl Karla V5 23365日目

父があり母がある。そのそれぞれにまた父があり母がある。こうして自分の先祖を頼ろうとすると、さかのぼる代に応じて2の累乗の数の人から等しく自分の遺伝子を決める流れを受けている。それなのに何故か人はそのうちのただ一筋の線を太く塗ってその線だけに特別な意味があるように思いたがる傾向がある。そして「お家」もしくは「家系図」を大事にする。長男が重んじられ、次男、三男は軽んじられる風潮はこの傾向と無縁でない。例えば宮家などのよほど高貴なお家柄のことならばいざ知らず、普通の家庭では「お家」にどれだけの意味があるだろうかとこの頃思う。確かに冠婚葬祭では「何々家」という言い方が無いと落着かないことも良く分かるが、核家族化した現代では「お家」の意味は薄らいでいる。一方で家族の構成とはひとつ屋根の下に一緒に暮らすからこそ意味があるので、別々に暮らすならそこでもう家族から離れると思う。親が子供に自分の跡をついで欲しいと思っても、そのようにうまく行く場合は次第に減っているのではあるまいか。息子が跡を継ぐだろうと期待して親が職業を選ぶことにもリスクがある。職人はどんな風に伝統技能を伝えるだろうか。「お家」の崩壊は無縁社会を生みやすい。高齢者には孤独死のリスクが増える。そういうマイナスの面を思うと、遺伝子マップにただ一筋の線を太く塗ってその線だけに特別な意味を持たせようとしたのは安定を求めた人類の知恵なのだろうか。それでも激動の時代に生きる僕たちはもっとスポット感覚の家族の中で生きるしかないように思う。二人の間に生まれてきた子はいつまでも自分たちのものでなく、社会に返すべきと言う考え方もある。孤独な家族だからこそしっかり社会とつながりを持とうと言う考えも生まれるのではないだろうか。