おみくじと宝くじ

火 旧暦 11月13日 大安 庚申 四緑木星 Juldagen V52 23331日目

年末になると「ジャンボ宝くじ」がよく話題になる。日本に行くことがあっても僕は宝くじを買うことは殆どない。買っても当たるわけはないと思うからだ。それでも過去には何度か買ったことがある。たいてい連続した10枚を買った。今はどうか知らないが、昔はそのうちの1枚くらいが100円当たるようになっていた。これが曲者である。何しろケチな男であるから1円でも無駄にはすまいと思う。それでその1枚を持ってまた宝くじ売り場へ行く。そこで100円玉ひとつもらって帰ってくれば良いものを、さらに900円を足して新しい10枚を買ってしまう。こうして、宝くじには一度買うと連鎖的に続けさせるようなからくりが潜んでいる。宝くじは夢を買うものではなくて、社会へそういう形で寄付をするのだというつもりで買うべきであると思う。宝くじに近いものはスウェーデンにもある。売店などで売っているようであるが、ダイレクトメールで誘って来るくじもある。中には寄付行為に主眼をおくようなくじもある。寄付と言う名分の裏に偶然の幸運をあてにする下心が潜んでいる。そう考える人もいるし(日本人的?)、寄付と射倖とふたつのことを同時に兼ねるものとポジティブに考える人もいる(スウェーデン人的?)。いずれにしても、どんなに小さな確率にせよ、宝くじには賞金という報酬がある。それに対して神社のおみくじはどうだろう。「大吉」が出たからといって、それを持って社務所へ行けばアルバイトに来ている美少女の巫女が目をまるくして「まあ、すてき!では集まったお賽銭から1万円を進呈しましょう」という神社はない。せいぜい口先で「あなたにはきっと良いことがありますよ」と言ってくれるばかりである。そんなこと、法律でできないことになっているのだろうが、そこまでおみくじが低俗化しては有難味が薄れるからであろう。「凶」と出れば、心理的にまた引きたくなって結局「吉」がでるまで何度でも引くことになる。このように採算性の悪い「おみくじ」のようなものはスウェーデンにはない。日本は変なくじのある国であると思う。