原子炉再開への動き

土 旧暦3月3日 大安 甲申 九紫火星 Gabriel Rafael V12 23055日目

福島の原子力発電所事故から1年以上が過ぎた。放射能が市民の住む広範囲の区域に漏れるという、あってはならない事故が起きた。それは史上最悪の事故となった。故郷に帰りたくても帰ることのできない人々のことをニュースで聞くと気分が暗くなる。しかし、あえて言うなら、原子炉のレベル7の事故というものは、本来はもっと恐ろしいものでありうるとも思う。例えば、チェルノブイリでは、その放射能が遠く離れたスウェーデンで最初に確認された。福島の場合、もしもこの事故で、例えばフィリピンとかベトナムとかの国々で放射能が検出されるほどの事故であったとしたならどうだろう。日本国内における放射能汚染は今とは比較もできない、目も当てられない状況に陥っていたはずである。せめて今程度の汚染に留まっていてくれるのは、レベル7の事故としては不幸中の幸いと言わざるを得ない。20年ほどたって今を振り返った時、あの時人々はあんなに騒いだけれども、放射能汚染による実害は結局なかったね、ということになる公算は大きいと僕は思っている。だから安心しろと言っているのではない。原子炉事故というものはこれが最悪ではなく、もっとひどい状況にもなりうる危険をはらんでいることを忘れてはならないということを言いたい。北朝鮮がミサイルを発射しようとしているが、かりそめにもそれが福島の発電所の上に落ちたらどうなるだろう。あるいは、気違いが飛行機に乗って福島めがけて体当たりしてきたらどうなるだろう。日本は非常に大きい弱点を抱えてしまった。そういう意味で国防の強化は非常に重要なことと思う。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、これだけ世の中を騒がせながら、日本が原子力から撤退することは現実的な問題解決にならないとも思っている。世の中では、ストレステストを実施するとか、それへの評価を下すとか、原子炉運転再開へ向けて色々な動きをみせているが、それらは僕には何か的外れのような気もしている。というのは、そこには当事者による事故への反省があまり見られずに、あの事故には目をつぶって、ただ、過去の栄光を取り戻そうとする動きしか感じられないからだ。ストレステストよりも重要なことは安全文化に対する当事者の意識の変化である。それぞれの発電所の現場ではこの先、ピリピリとした命令系統が強化されるであろう。しかし、それは安全のためには逆効果でさえある。大切なのは、自由で柔軟な発想であり、何が今問題であるかを的確に見抜くしなやかな心である。あの事故を境にして、原子炉運転を実施する当事者が、まるで雷に打たれたもののように、ゼロからの再出発をするほどの意識の改革、あるいは組織の見直しを見せて欲しいと思う。それが感じられるようになれば、その時初めて、日本に原子炉運転再開が認められるような気がする。