命を失う者は

日 旧暦1月14日 友引 丙申 六白金星 Agata Agda Kyndelsmässodagen V05 23007日目

「命を失う者はそれを得る」という言葉がある。僕が今思っていることはこの言葉の意味とは違うのかもしれないが、自分たちの繁栄のために自分たちが犠牲にならなければならないということの意味は、自分たちに何か大きな価値感の転換を必要とするということである。戦国時代の武将織田信長は出陣に際し幸若の一節を舞って「人生50年」とうたった。元禄時代俳諧師井原西鶴世間胸算用の中で、大みそかに金もなく、借金取りの来るのを待ち受ける男に「俺も56になって、もはや命が惜しい年齢でもない」と言わせている。日露戦争の立役者児玉源太郎は54歳で亡くなっているし、戦艦大和の最期を奇跡的に生き延びた吉田満も享年56歳であった。身近なところでは同居人の父は54歳、兄は59歳で逝った。現代の女優では田中好子も昨年55歳で逝った。現代は長寿社会であるが、人の寿命は本来もっと短いものかもしれない。こういう事実を知っても、還暦を過ぎてなお、「命が惜しい年齢でもあるまい」という達観に毎日自分を向き合わせることはなかなか容易ではない。だが、そういう覚悟を持つことが人生を豊かにすることはあると思う。年寄りだから言うのではない。若い女性の場合だって、いい結婚をしたいと思っているうちはなかなか良い結婚が出来なくて、「私は一人で生きていく」という覚悟が出来た時に初めて良い結婚が出来るということもあるような気がする。老若男女を問わず、何かを得るためには何かを捨てなければならない。