福祉と人口

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同居人あてに日本の友達から送られて来た本があったので何となく手にとって僕も読ませてもらった。書名は「人と社会ー福祉の心と哲学の丘」。阿部志郎、河幹夫共著。自分は普段から弱いものの立場に立って社会を眺めることがない人間であることを改めて認識したというか、福祉について考えるきっかけをこの本で教えてもらった気がする。福祉社会の実現のために個人としてどのような心構えでいるべきかという方向からの示唆と、一方で社会の制度はどのようでなければならないかという方向からの検討など、現代の日本の状況に即して書かれていた。読後感に代えて福祉について自分の思うところを少し書いてみようかと思う。それは福祉と人口の関係についてである。ある定数が存在して、「福祉社会の実現のためには、人口の集中度がある値以下でなければならない」と言えるのではないか。僕はスウェーデンに住んで20年以上経つが、昔と今と住みやすさを比較してみると、総じて昔の方が住みやすかった気がする。この間に暮らしの便利さは飛躍的に向上したが、同時に世の中が騒がしくなり住みにくくなった。それは昔よりも人口が増えてきているせいである。如何に高福祉の国スウェーデンといえども、人口がどんどん増加すると、どこかの点で、これ以上は福祉社会は成り立ちません、という点があるのではないかと、僕は内心危惧している。もちろん、福祉社会であるのかないのかという判定は0か1かで決まるものはなく、もっと連続的に評価すべきものであるけれども、そういう傾向はあるのではないかと思う。日本でも各地域の住民に、「あなたは自分の住んでいる地域に満足していますか」というアンケートが何年か前に実施されたことがある。結果は人口の少ない地域ほど住民の満足度が高いもののようであった。このようなアンケートは満足度の低い自治体から横槍が入って今はそのようなアンケートは実施されないそうである。「どこへ行ってもすいている」これこそ福祉社会が実現するための必須の前提条件である。逆に人口が少なくて生活に便利な地域があればそこに福祉社会が芽生える可能性は非常に高い。お年寄りが「昔は良かった」と口にする時、それは古き良き時代への単なる郷愁や思い過ごしではなく、実際、昔は人口が少なかったからそうであったのだ、ということができるのではないか。現代社会は変な事件が頻発したりおかしな様相を呈しているが、人間は元来社会を構成して生きる動物である。人口さえ少なければ、お互いに相手を思いやる心は誰にも容易に芽生えるのである。アダムスミスは人の自由にまかせておけば見えざる手に導かれて経済がよくなる、と言ったが、人口の少ない社会でさえあれば人間はひとりでに人間らしい社会の営みをするようになるものである、という楽観論も成り立つのではないか。そんなこと言ったって人口が少なければその分財源をどこに求めるのか、という課題は無論ある。けれども、人口の集中した都市に福祉社会の実現は不可能である。「少子高齢化」の危機をどうのりきるかと騒ぐ人もいるが、人口が減る傾向にあるという意味ではこれは憂いなどでは決して無い。これまでの価値観、経済観を引きついだままものごとを考えるから危機であるように思われるだけである。価値観をかえて、時代に即した社会のしくみを打ち立てる自由性を日本が持ちうるかどうか、が課題である。そういう意味では、日本で過疎化に悩む村にこそ、将来への可能性があると、僕には思われる。日本の福祉政策は人口分布の地方への分散化から始めなければならないのではないかと僕は思う。