地図の無い町

金 旧暦10月17日 友引 戊午 六白金星 Emil Emilia V46 21829日目

永井荷風の「日和下駄」をぱらぱらと読んでいると、江戸という時代とその静寂な町並みが如何に人間味にあふれたすばらしいものであったかが伝わってくる。その作品は、明治という新しい時代に進んだ都市開発と文明破壊への強い批判にもなっているのであるが、それは単に昔は良かったという、老人にありがちな旧懐の愚痴とは別のものである。こういう批判はいつの時代にも繰り返し起こるものかもしれないが、あるひとつの高みが時代を経るにつれてただ一方的に落ちていくだけではないだろうかということが、僕のひとつの心配である。同じ批判でも随分ポテンシャルの違ったところで批判しているのではないかというような不安がある。例えば六本木ミッドタウンに代表されるように、東京は都市美を追求した現代建築の集まりになっている。それはある意味で新しい高みの創造であるかも知れないのであるが、町の中に自然と共に生きようという人間らしさを求める人の目から見るとやはり後退なのである。例えば昔は、どんな精密な地図でも決して明らかに描き出すことの出来ない路地があったという。何万分の1の地形図や、電子計算機の画面に現れる地図に馴染んでいる僕達の目には、地図で表わしきれない空間があることなど、想像することさえ出来ないが、どこから這入ってどこへ抜けられるか、その路地に住む人だけが分かる空間があったなんて、なんか良いなあと思うのである。何かを得れば何かを失う。これは致し方の無いことである。けれども、自分達が失ったものが何であったのかだけはいつも忘れないようにしたい。