大野先生お安らかに

月 旧暦6月12日 大安 乙卯 三碧木星 Folke Kronprinsessans födelsedag V29 21706日目

日本語の大御所、大野晋先生が永眠された。あのように偉大な先生に対して、自分のようなものが、私淑しておりますと申し上げることも恐れ多いことであるが、僕の気持ちとしては、やはり先生である。僕は、まことに下手ながら国語が好きになることができて、それは高校時代に持っていただいた古文の先生に負うところも大きいのであるが、後年、大野先生の書かれたご本から影響を受けた部分も大きい。20年以上も前の話であるが、直接の講義を拝聴してみたいと思って、一度だけ、朝日新聞ホールに出かけたことがある。タミール語の研究をなさり始めた後のお話であった。学問の世界では反対意見も多かったのかもしれないが、先生のお話は、長年古い言葉を研究した人だけに働く直感から導かれる確信に満ちていた。去年の秋、「日本語の源流を求めて」という新書をお書きになった。その読後感を自分用のメモとして残してあったので、それを以下に引用して、大野先生追悼の記念としたい。

  • 日本の弥生時代とはどんな時代であったのか、この本を読んで一気に理解が深まった気がした。これはもはや言語の移動にとどまらず、文明の全体がどのように移動するものであるかについて解説されたスケールの大きな読み物である。コンティキ号漂流記もふと連想しそうな、古代の勇気ある人々の海上交通利用の話は面白かった。海は現代の我々が想像するほど外界を遮断するものではないことも判るような気がする。台湾と大陸の間から東シナ海をまっすぐ対馬へ北上するコースの上には沖縄列島はのって来ない。この本は考古学者の書かれた本よりよほど考古学に入りやすい気がした。お餅が何故西日本では丸く東日本では四角く切られるかの理由も納得がいった。タミル語と日本語との単語別の対応については発音などに色々と細かい法則があって、それをひとつずつ丹念に追いかけて読むのは骨が折れる。だから僕はその辺はざっと読み流してしまうわけであるが、きちんと学びたい人には必ず説明が載せられている。配慮の良く行き届いている本であると思った。およそ、その辺をきちんと学びたい人は、その前に橋本先生の「古代国語の音韻について」の知識を熟知しておらねばならない。僕には万葉集に現れる「上代特殊仮名遣」の発音も甲類、乙類の区別もつかないので、この本をいきなり理解しようとするには無理があるのである。万葉集時代の日本語には八つの母音があった。現代のスウェーデン語にも八つの母音がある。1対1の対応がつくとは思えないが、現代日本語にも母音が八つあってくれた方が、スウェーデン語を勉強しやすかったかもしれない。大野先生は結びの言葉に「この眼の前の困難な世界を切り抜けて行くには、各々が自主自立の心をもって、新しいものの創造、明確な日本語の使用に挑み続ける以外にはない」とお書きになっている。同時代を生きる読者の一人として、服膺すべきご遺言であると思った。