耳をすませば

日 旧暦5月5日 先負 己卯 三碧木星 Eivor Majvor 3e. tref. V23 21668日目

朝3時には外はもう明るく、窓の外の小鳥のさえずりがうるさいらしい。らしいというのは、僕の耳には聞こえないからである。冷凍庫のドアがきちんとしまっていないと、警報音が出て、所定の温度以下になるまで、警報が止まらない。この音も僕には殆ど聞こえないが、同居人には相当の不快音で聞こえるらしい。僕の耳は高周波フィルターがかかった増幅器のようなものである。1000ヘルツより高い音は高くなればなるほど聞こえなくなる。可聴音の周波数帯域が狭くなってきているのである。これはやむを得ないことかもしれないと思う。むしろ、自分は日頃、どれだけ耳をすます時間を過ごしているだろうか、と自問してみる。現代文明のおかげで、僕達は、文字はもちろん、映像や音声を含めて、必要な情報を好きな時に何回でも見たり聞いたりすることができるようになった。そのせいで、一度限りの音というものに対する感性が、少なくとも僕自身は、鈍くなって来ている。野性の動物は、一瞬の音の動きから、敵の接近を察知する。彼らは常に耳をすまして生きているのである。人間も本来は耳をすまして生きる動物であった。茂木さんの本には、耳をすますことから新しい発想が生まれる、と書いてあった。いかに、どれだけ、耳をすませられるか、人生はその勝負にかかっている、という風にも書いてあった(「すべては音楽から生まれるー脳とシューベルト」)。そうであって見れば、聴力の失なわれつつあることを心配するよりは、耳をすませる時間の不在を憂うることの方が、自分には急務であると思われる。