フリー百科事典の是非

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ネット上のフリー百科辞典ウィキペディアは誰でも書き込みが出来る百科事典で、民衆の知恵を集めた辞典になっている。僕も時々、これで調べ物をするのであるが、おや、と首を傾げてしまうような記事に出くわすこともある。そう思ったら自分で書き込めばよいのであるが、書き込みをするにはこちらの力量不足であるし、時間も無い。おや、と思った記事は「柳田邦男」氏の項目である。今日という日付(2007年12月22日 19:38JST)で見た記述に対しての感想であるが、氏のこれまでの膨大な著作活動について殆ど触れられておらず、どうでも良いことの記述に多くのスペースが割かれている。こんなバランスの悪い記述にどうして誰も文句を言わないのであろうかと思って「ノート」を見ると、はたして、色々とやりとりの履歴が残っている。どうやらその書き手は柳田氏の考えと違うものを持っていて、自分の考えを世に主張したい為に、社会の公器であるウィキペディアを利用しているようなのである。その議論ともいえぬやりとりを見ただけで気が萎えてしまった。こういう人にはそういう意見発表の場を別に提供してやって、「柳田邦男」氏の項目は、もっと全体にバランス感覚の良くとれた著者によって全面的に書き直してもらいたいと切望する。もしも、ネット百科辞典が民衆の総意によるそのような自浄作用を持たないなら、所詮はフリー百科事典の限界を示すものとして、ウィキペディアは低い評価しか与えられらないであろう。何日か前にグーグルが参加者を限定して、書き手を実名表記の、「ノル(knol)」というネット百科辞典のサービスを始めた。歓迎である。こういうサービスとの競合を通してフリー百科事典はより客観的事実を表記する場であって欲しい。