大正時代のシングルマザー

土 旧暦 12 月 4 日 先負 壬子 四緑木星 大寒 Fabian Sebastian V03 25183 日目

今日は祖母の命日である。祖母といへば、本来なら父方と母方と両方あるのだが、父が養子として家に来てくれた時にはもう両親がなかったから、僕は父方の祖父母を知らない。母方の祖母は母を産んだ後、おそらく思ふところあって、シングルマザーとなった。祖母は終生、一切を語らなかったのでその辺は想像するしかないのだが、あの時代にシングルマザーとして生きるのはおそらくきつかったらうと思ふ。僕が生まれた時はもう戦後であったが、復興のさなかに福井地震があって、僕はその時母の胎内にあった。地震後、雨露をしのぐだけの質素な家ができて、僕はそこに育った。小学校低学年の頃はまだ家に水道もなかった。台所には手押しポンプや、その隣に甕があった。甕の中はシュロや小石や砂などが何層にも重なって濾過器を成してゐた。水を汲み上げると水は甕の上部に入り、やがてその下部の小さな口からチョロチョロと出て来る。僕はそれが面白くて、よく水汲みの手伝ひをした。流し台といふのは床より少し低い土間の様になってゐて、床に座り込んで野菜や食器を洗った。のちに家が少し改造されて、水道も引かれた。立ったままで洗ふ流し台が出来た時には文明を感じた。我が家は初めから小さな家族であったから、肉親との別離を体験することなく僕は大人になった。それは僕にとってやはり幸せなことであったとずっと信じてゐる。初めての別離の体験として祖母がこの世を去ったのは今から 36 年前のこと。1982 年、僕はもう 33 歳になってゐた。スウェーデンに渡ることになったのはその5年後である。昔は社会全体がさうであったかもしれないが、祖母の信条もあって、我が家の生活はすべからく質素を旨とした。それは本当にありがたいことであったと、今、回想するにつけても思ふ。不孝の孫ではあったが、供養の気持ちを込めて、今日は祖母に育ててもらった頃の想ひ出を書いた。