あれから5年、あの日も金曜日であった

金 旧暦 2月3日 仏滅 壬辰 八白土星 Edvin Egon V10 24492 日目

5年前のあの日、茨城県で仕事をしてゐた僕の日記は次の様に始まってゐる。「0400トイレに起きて少しまた寝たら目覚ましに気づかずに起きるのが0600になった」この8時間後に地震に襲はれるが、日記を読むとその時の様子が蘇る。また、自分の書いたブログを読むと、前日の3月10日のタイトルが「地震」となってゐて、文末に「地震はこわい」と書いてある。まるで翌日に地震が起こることを知ってゐたかの様な書きぶりで自分でも驚く。地震の後は停電、断水、あらゆるお店の閉店、食べ物のない状態が何日も続いた。このため、津波の被害や重大な原子力事故があったことを知ったのは何日も後のことであった。一家全滅した人たちもあったに違ひない、子を亡くした親、親を亡くした子、妻を亡くした夫、夫を亡くした妻、そんな人たちがたくさんあって、それぞれに悲しい物語を紡いでゐると思ふ。自分は何もできないので、哀悼の意を表しても空々しいかもしれない。ただ、親を亡くした子供たちは今どの様な支援を受けてゐるかなといふ事は特に気になる。防災対策についても気になる。今、どの町にも公衆電話を見かけないが、災害時に公衆電話だけはよくつながった事が日記から分かる。「災害が起きた時はスマホの力で」と考へる人も多いかもわからないが、もしスマホを使へる状態であるなら、それは大した災害のうちに入らないのだ。町から公衆電話が消えた時に、その町は災害に無防備な町となる。