難民問題と日本

月 旧暦 9月21日 大安 壬午 六白金星 Tobias V45 24362日目

シリア難民が大量にヨーロッパに押し寄せる中で日本はどうすれば良いのかと、この頃僕は自分なりに考へるのだが、どうにも答へが出ない。「それは大変ですね、大変でせうが頑張って下さい」とヨーロッパ諸国に向かって言ってる場合ではないと思ふ。今日の日本経済新聞池上彰の「若者たちへ」でもこのことをテーマにして若者の意見が紹介されてゐた。また先日の別の記事では、難民たちは必ずしも「日本に逃れたい」とは思はないことも指摘されてゐた。無理もないと思ふ。その昔、ナチス・ドイツの迫害によって逃れて来た難民に対し、リトアニアで外交官であった杉原は、外務省の命令に背いて大量の命のビザを発給した。その難民の一部はシベリアを超えて日本海から敦賀に入った。その当時の状況からして日本が難民を受け入れることは不可能であったと思ふが、仮に受け入れられる状況があったとしても、難民たちは別の地を求めて流れて行ったのではないかと思ふ。そこでは言葉の壁、宗教の違ゐ、文化の違ひが大きな障壁になってゐると思ふ。現代の日本国憲法では宗教の自由が保証されてゐる。これから先、日本が難民を受け入れることになった場合でも、入って来た人たちには、自分の宗教を他の人に押し付けないでもらひたいと切に願ふ。彼らが生きる最高の規範である唯一神の宗教をさらに超えて「和を以って貴しと為す」の精神を真に体得したものでなければ、日本は難民を受け入れられない、くらいのことは強く高らかに前もって宣言して良いのではないかと思ふ。聖徳太子憲法に現れるこの精神は、皇祖皇宗の神道と新来の仏教との融和の必要から生まれたものとも言へる。明治時代には廃仏毀釈の現象も起きたが、大きく言へば、日本の文化は宗教を超えたと思ふ。この「宗教を越えよう」と言ふムーブメントを日本から発信することが、難民受入の条件であり、それが世界平和の建設に貢献するのではないかと思ふ。その上で難民受入の実務的なことを検討して欲しいと思ふ。