住民への説明会

土 旧暦 閏3月8日 仏滅 己未 八白土星 Ture Tyra V17 23090日目

原子炉の安全性に関する住民への説明会というものは必要な手続きには違いないが、それは答の出ない問題への問答の繰り返しに過ぎない。だって、そこでどんなに誠心誠意、丁寧な説明がなされたとしても、なるほど、そうだったのか、それなら安心だね、と住民が納得するような結論に至ることは決して無いだろうなということが最初から誰の目にも明らかだからである。誰だって全ての場合に対していつも絶対安全ですとは言い切れないものである。現代文明の恩恵を受けながら生きていくためには、誰も多かれ少なかれリスクをとらなければならないようにできている。文明の恩恵を受けて生きるために自分で納得のいくリスクを自分の選択でとるならば、その結果が不幸に落ちる場合があったとしてもそれを受け入れねばならぬと思う。飛行機に乗ればいくら安全だと言われても落ちるリスクがある。電車に乗っても自動車に乗っても事故にあってしまうリスクはある。乗り物に乗らずに歩いていても変な自動車に突っ込まれるリスクがある。家の中にじっとしていても絶対安全ということはないだろう。食品にだって絶対安全なものなどないのではないかと思う。どんな人もいつかは必ず死ぬ。もうこれ以上危ないことはないそういう事実をかかえてみんな生きている。それなのに絶対的永遠的安全を当然のことのように求める一般的風潮はいかがなものかと僕は思う。どんな文明社会にもリスクはつきものであることを周知徹底させることこそが原子炉の安全性の説明の前に必要ではないかとも思う。念のために言っておけば、僕は安全への努力を怠ってよいと言っているのでは決してない。原子力発電を止めてこのままいけば僕たちは早晩必ず文明の崩壊という最も恐るべき事態に陥ってしまう。例えば火山の爆発である。富士山とか浅間山とか、この先決して爆発しない保証はない。世の中では地震対策、津波対策が非常な関心の的になっているが、今後起こりうるリスクとしてはむしろ火山爆発の方が恐ろしい。火山爆発による関東一円の太陽光発電設備の全滅も想定の中には含まねばなるまい。その時に全国的根源的電力不足に陥ってから、取るべき時に取るべきリスクをとらなかった蒙昧な衆愚と運命を共にしなければならないとしたら、こんなに情けないことはない。